あさぶろ日記

note のほうに書いている記事を保管しているだけです。

宿題とシステム不具合に見る自己満足の話。

愚痴です。久々の愚痴。別に今は頭に来ているわけではないし、すでに冷静になっているけれど、戒めのために書き記しておきます。

仕事と子育ては、似ていると思う。それは自己満足の押し付け合いという部分でだ。そんな話。


※愚痴がすごいのでそういった類が苦手な方は読まれないほうが良いかと思います。それでもよければ。

まず、子育ての話。

子どもと接していると「ああ、こうしてほしいのに」と思うことを、驚くほど物の見事にやってくれなかったりする。それは、単純に子どもが親に反発しているということもあるけれど、普通に考えて、子供側に「メリット」が無いか、いや、あるけれどそれよりも優先するものがあるか、はたまた、それを親側が子供に対して正しく伝えることができていないためだ。そしてその言いつけ自体も、よくよく考えると、親の意見の押し付けだったりするのだ。

たとえば、「早く宿題やっちゃいなさい」と子供に言うけれど、それは一見子供のためであるように思えるけれど、宿題をやらないことで学校で子どもが問題児扱いされて、連絡帳に「お宅の息子さんは宿題をやってこないのですがどういう教育をなさっているんでしょう」なんて書かれて、親である自分も変な見られ方をするかもしれないというような恐怖から、そう言っているだけなのかもしれない。

あるいはそこまで被害妄想が行き過ぎていないにしても、宿題をやらなかったことで、後で、直前になって子ども自身が焦って機嫌を悪くし「ああ、どうしよう!もう嫌だ!」と喚き散らすとしたら、その騒ぎ声がうるさいからそれを聞きたくないために、言っているのかもしれない。

結局は自分の都合。親の都合。宿題なんて、やらないならやらないで、本人の不利益になるだけだ。親には関係がない。そのことで、子供が、先生から怒られて廊下に立たされていたって成績が下がることになったって、本当は親にとっては何の関係もない。

「そうは言ったって、自分の子供なんだから可哀そうじゃん」という意見も分かる。世間には「パターナリズム」という考え方がある。これは、要約すれば、「その人の利益になることだからと言って、他人がその人に対して押し付ける形で強制させる」というようなことだ(正しい意味ではないかも)。親が子供に対して、アレコレと口を出してその子の行動を制限したり強制することも、それに該当すると私は考える。小さい子供ならそれは必要だ。

たとえば、幼児である我が子と外を歩いている。道路脇の歩道には、ガードレールはない。そのような歩道を歩くときに、親は幼児の手をつなぐ。他方で、幼児は好き勝手走り回りたいものだから、その手を振り払おうとするが、親はそれを離さない。「車が走っていて危ないから」と言って、手をつなぐことをやめない。

その裏にあるのは「この子はまだ小さい。私が手を離したことで車道に飛び出して、交通事故に遭う可能性が高い。そうなると、この子は大怪我をしたり最悪の場合には命を落としてしまうかもしれない。親としてはこの子を守る責任があるし、親自身としてもそのような悲劇を防ぎたい。だから手をつなぐ」という思いかもしれない。ある意味でパターナリズムだ。それは必要な保護だ。なぜなら「手をつなぐ」という行為を強制しないことで、「生命」という最大限に大きい利益を失う可能性があるからだ。

しかし、これが「宿題をなかなかやらない小学二年生」だったら、そこまで干渉し、強制する必要などあるのだろうか。パターナリズムのような、立場が優位にある者が下の者の意思を無視してまで、強制的にその行動を制限することで、果たして誰のどんな利益を守ろうとしているのだろうか。

いや、もちろん、「宿題をやらないことで、この子の有望な未来を閉ざすことになるので、それは何としてでも避けたいのだ!」という意見もあるかもしれない。各家庭によって、守るべき利益は異なって当然だ。

ただ、少なくとも、我が家に関しては、(学校関係者の方には本当に申し訳ないが)宿題をやろうがやるまいが、本人が授業の内容を理解していれば問題ないと思っているし、何なら、現時点でうちの子供が勉強について行けていないという事実は確認できないので、勉強に関しては本人がやりたいようにすればいい、というスタンスをとっている。

だから、本来は、子供が自分で自分の裁量で、宿題を含む学校からのリクエストをこなせばいいはずなのだ。仮に宿題をやらなくて叱られても、それを受けて「いやぁ、やっとけばよかったな」と後悔するのか、「別に全然平気だしー」と開き直るのか、本人の特性に委ねるしかない。

それでも、親として「宿題をやること」に多大な価値を置いていて、それを子供にも分かってほしいというなら、そう説明して、プレゼンして、子供の心に訴えればいいだけの話なのだ。我が家はその必要性を感じないが、必要なのであれば、それが親側が考える「メリット」を子供に正しく伝えきる、ということだ。そうしない(できない)のに、親が自分の言うことを、子供に言って聞かせようとして強く言うというのは、やっぱり「親の都合」でしかない。

改めて考えると、私は随分とその「都合」を子供に押し付けていたと分かった。自己満足からそうしていたのだ。


で、他方で、仕事の話。

先日、このようなメールが私の所属する部署宛に届いた。

「お忙しいところすみません。
今月に入ってから、システムの●●機能が正しく動かないという状況です。もしかしたら私だけかもしれませんが、一度ご確認いただけますでしょうか。
お手数をおかけしますが、よろしくお願いいたします。」

そしてもう一通、今度は別の方。

「システムの●●機能が使えません。
早急に対応して解消してください。業務に影響が出ています。以上。」

私は情報システム部門に所属しているので、このように、社内システムの不具合が疑われる内容のメールが送られてくるのは、日常茶飯事だ。というか、そういった問い合わせをさばくことも、業務のうちだ。

この件、システムの不具合の原因は、この二つのメールとも同じ。そして、そのメールを送られた方の役職も、実はほとんど同じ。

けれど、どうしてだろう、後者よりも前者の方のほうを「何とかして助けなければ」と思ってしまう。

物言い?そうかもしれない。私の器の小ささが露呈されて何とも恥ずかしくもあるが、役職としては同じ立場のお二方なので、業務の影響は恐らくほとんど同じ。一方は、謙虚。もう一方は、言い方は悪いが「早く直せ」という態度。ここに見えるのは、やはり上で書いたような「自分の都合」なのだ。

自分の仕事を早く終わらせたい、けれどシステム不具合でそれができない、一体何してやがるんだ、問い合わせて文句言ってやろう、こっちは偉いんだ、だから早く直せよ。そんなふうな、自己都合の態度が見えてきてしまって、どうしてもこちらの仕事のモチベーションをグングンと奪ってくれる。

あまり詳しいことは書けないが、正直に言って、個人的な見解では、その機能が使えないことで大きな影響があるとは思っていない。というのは回避策は幾らでもあるし、もっと言えば、今の時期はそのシステムを使用してそこまで緊急の業務があるわけではないからだ。

そもそも、システムを提供する側の人間が大っぴらにこのようなことを言うのは間違っているかもしれないが、システムは絶対的な存在ではないし、未来永劫、常に24時間365日1秒も止まることなく安定的に稼働し続けるとも限らない。幾ら堅牢に作っていたとしも、使う人間が完全ではないのだから、予期せぬ結果が出てきて当然だ。操作上のヒューマンエラーだけではない。ハード故障やサイバー攻撃等で、いつ突然ストップするか分からない。

だから、それが使えなくなった時のリカバリや代替手段をあらかじめ用意しておくべきなのだ。それは当然、提供者側の我々の課題でもあるわけだけれど、ユーザ側としても「これ止まったから何もできない。何とかして」というおんぶにだっこ状態では困るのだ。少々脱線した。

とにかく、自分の都合だけで「早急に」という言葉を安易に用いてしまうところが、なんとも空しいというか、恐らくだけれど、我々の都合などは微塵も考えていないであろう物言いに、つい「はぁ・・」とため息をつきたくなった。いや、やることはやりますし、のんびり対応するつもりはないですけれど。でも「お忙しいのはご自分だけとお思いで?」と内心思ってしまうのだ。

急かされるとどうにも調子狂うというか(子供も「宿題やりなさい」と急かされると、途端にやる気を無くすのと同じかもしれない)。

結局は自己満足。それはもちろん私も同じで、「お前だって、たかだか文章の言い方ひとつで、これだけ文句言ってんだから自己満足の塊だろ」と言われても反論はできない。

けれども、やはり人と人が接してやりとりして、持ちつ持たれつで仕事をする以上、「この人の役に立ちたい」という思いを持たせてくれる人にはモチベーションが上がるし、そういう人たちと一緒に仕事をして、いい結果を導きたいと思ってしまう。私は上でも書いたとおり、器の狭い、人間の小さいやつなので、特にそう思う。

ちなみに、その不具合は、速攻で対応して10分程度で解消した。諸事情により防ぎきれない不具合ではあるのだけれど、そこは柔軟に迅速に対応できるように、仕組みは作ってある。

問い合わせいただいたお二方に、謝罪と復旧の連絡をしたところ、数分してメールが届いた。

「早急に対応してくださってありがとうございました。
 無事、操作できるようになりました」

そのメールの送り元が、どちらだったかは言うに及ばない。もう一方からは何の返答もなかった。

結局「早急に」と要求する人に限って、そこまで急ぎの用は無いのだ。もちろん感謝の気持ちなども無い。なぜなら我々のような部門のことを「やって当たり前」だと考えているからだ。


自己満足。ある程度それは仕方ないことだけれど、もっと「相手が喜ぶ」(つまりそれは上で書いた「メリット」に近いものかもしれない)ような態度で接していかないと、多分お互いどこかで歪みが生まれる(もしくはどちらかが無理し続ける)ことになりそうだな、と思った。本当の意味で「相手のために」というか。そうでなければ、心はたぶん動かない。自戒を込めて。

子育ても、仕事も、日々勉強と改善をしていかなければ。
おしまい。