あさぶろ日記

note のほうに書いている記事を保管しているだけです。

勉強とは・・という話。

ざっくりしたタイトルを付けてしまった。でも、この頃つい考えてしまうので、ひとまず書いてみることにした。

これを読んでいる方がどんな方か存じ上げないけれども、単刀直入に「勉強って好きですか」と問うてみる。

その答えは単純な二択ではないと思うのだ。大人と子供で、もっと言うと、学生と社会人とで、働いている方と働いていない方とで、その答えのバリエーションは多岐に渡ると思うし、だからと言ってその正解なんて一つだとは思っていない。さらに言うと、この記事の中で「勉強って良いものだよ、もっとやろうよ!」とか「勉強なんて、社会に出て役に立たないし、やる必要なし」なんて言うつもりもない。

そのうえで、自問してみる。

私個人として、詳しく言うなら、30代後半の、ごく平均的なスキルしか持っていない社内システムエンジニアというか平のサラリーマンという立場として、「勉強ってどうなの」ということを書いてみたい。


1.「勉強」とは

「勉強」という言葉を辞書で引いてみる。

1 学問や技芸などを学ぶこと。
「徹夜で―する」「音楽を―する」

2 物事に精を出すこと。努力すること。
「何時までもこんな事に―するでもなし」〈福沢・福翁自伝

3 経験を積むこと。
「今度の仕事はいい―になった」

4 商人が商品を値引きして安く売ること。
「思い切って―しておきます」

goo国語辞書よりここで取り上げたいのは、1と3だ。2については、私の教養や経験が不足しているためか、申し訳ないが、あまり馴染みがない。4については、家電量販店とかで耳にしたことがあったけれど、今回の記事の趣旨とちょっと異なるので除外。よって、1と3についてになる。

学生時代に「勉強」と言えば、それは学校での授業に関することを意味する場合が多いと思う。国語だったり、算数や数学だったり、西洋史学だったり、量子物理学だったり、要するに「学問」だ。

ただし、学校で教えてもらうそれと、自分で学び研究するそれとは、大きな違いがあるように思う。それは当然で、義務教育である小学校や中学校、そして高校で行われる「授業」は、カリキュラムに基づいて「これらの知識や技量を習得しましょう」という目的で行われていることだろうと思う(私は教育関係者ではないので、間違っていたらすみません)。

その中で「問い」がありそれに対する「答え」がある。その「答え」に至るプロセスは幾つもあるし、何ならもしかしたら「答え」自体が複数ある場合もあるかもしれない。しかし、基本的には「問い」があって「答え」がある。その解法を学んで、想定された「答え」にどれだけ多くたどり着けるか、その確率を上げる作業だったりするかもしれない。「授業」は、先生(それは今の時代もしかしたら人間ではないかもしれないけれど)が居て、彼らから学ぶ生徒が居て、基本的にはその「問い」と「答え」のパターンを学習する作業。それが高校までの「勉強」ではないかと思う。

そしてその後、大学なり大学院なりに進学する人が多いけれども、そこからの「勉強」はそれまでと大分毛色が異なる。まず「授業」は、決められたものがあるわけではない。もちろん大学によって必修だとかそういった科目は定められているだろうが、基本的には自分で選択して学習するべき科目を決める。研究であっても、特定の教授に師事したりもするが、誰かに付いて教わるという必要も無い。

大学で提供するのは、「講義室」だとか「研究室」だとかでしかなくて、その後の「勉強」は自分で行う。中学や高校では当たり前に存在していた「問い」すら無い。それを自分で考える必要がある。大学とは、そういうものだと私は考えている。(これまた大学関係者ではないので、正しくはないかもしれないが)

ここまで私の持論を述べてきたけれども、一つ根拠というか、参考までに「客観的にはどういう目的なのか」ということも載せておきたい。

大学の目的については、学校教育法でこう定められている。

大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする。

学校教育法 第83条中学や高校と比較してみると明らかにその目的が違う。

中学校は、小学校における教育の基礎の上に、心身の発達に応じて、義務教育として行われる普通教育を施すことを目的とする。

学校教育法 第45条

高等学校は、中学校における教育の基礎の上に、心身の発達及び進路に応じて、高度な普通教育及び専門教育を施すことを目的とする。

学校教育法 第50条中学や高校は「教育を施すこと」を目的にしているのに対し、大学は「知的、道徳的及び応用的能力を展開させること」とある。「広く知識を授ける」との記載もあるが、つまりは、上で書いたとおり、基本的には「自分で学ぶ」ということなのだ。

では、話は戻って「勉強する」ってどういうことなのだろう。

もはや小学生でも高校生でもない、大学生ですらない私にとって、「勉強する」とは何なのか。

2.「仕事をする」とは

話が飛ぶようだけれど、私は社会人だ。自営業ではない、ごく普通のどこにでもいるようなサラリーマンだ。働くようになって、もう10年以上は経っている。

そのような人間は、別に私がわざわざ自分自身を披露しなくても、朝に駅に行けば大勢見つけることができるだろうし、何ならその人たちと私は全く違わない。ほとんど同じ人間だろうと思う。

けれど、同じ人間だとしたって、働いている会社も違うし、キャリアの長さも経験の多さも違う。出来る仕事の種類も違う。仕事に対する熱意や姿勢、スキルだって全然違う。当然ながら、一人ひとり違う人間だからだ。それでも、それぞれがそれぞれに働いていて、その対価として、「お金」を貰って生活をしている。そんな人が大多数だ。

なぜ仕事をするとお金が貰えるか、とか、お金が多くもらえる人と少ない人がいるのはなぜか、ということを掘り下げていくと明らかに紙面が足りなくなるし、何なら今の時点でちょっともう長すぎてしんどくなってきているので割愛させてもらう。それについては、この記事で少し触れているのでリンクを貼っておく。

で、仕事をするということは、あくまで持論だけれど、程度の差こそあれ、誰かが助かるということで、その役に立った対価としてお金がもらえていると、私は考えている。つまり、需要があって、その需要にこたえる形で供給を施しているから、お金がもらえるということだ。

そして、ここから先の話は、もし私が、バリバリ稼いでいる実業家とかすげー意識の高いビジネスマンとかだったら話は別だけれど、そうではなくて、ごく普通の一般的な、どこにでも居るサラリーマンだということを念頭に置くと。

そりゃあバリバリ稼いでお金なんて気にしなくていいほどガッポガッポ入ってきてそれが常に手元にあって何不自由ない生活が送れるのなら、それはさぞ幸せなことだろうけれど、そうではなくて、大多数の人間と同じように、日々働き、嫌なこともあるけれど、楽しいこともある。お金もそこまでたくさんもらえているというわけではないけれど、それでも何とか生活できている。私は、そのような人間だ。

そのうえで、他に何を望みますか、という話だ。

3.「現状維持」とは

なぜ仕事をするか。それは生活するためだ。少なくとも私にとっては。

そして上で書いたとおり、何とか生活を送ることはできている。それで十分に思える。何も望むことは他にないのではないか、と。言わば現状維持だ。しかし「現状維持」とはそう簡単なものではないと私は考えている。

それこそが「ほかに望むことは本当に無いのか」という問いの答えになると思っている。

私は働いているので、「仕事」と絡めてつい考えてしまうけれど、日々生活して過ごしていく中で、やっぱり「仕事」が日常に占めるウェイトは無視できないほどに大きい。

だから、「仕事」がなるべく楽しくなれば良いな、と考えてしまう。そういった意味で、どうすれば楽しくできるのかな、ということを考えている。それはある意味「攻め」の思考。

どういうことかというと「なるべく嫌な仕事はしたくない」としてそれを避ける方法をを考えるわけだ。それは逃げるという意味ではなくて、まず「なぜ嫌なのか」を分析する。嫌だと思う原因を知るのだ。

それは「仕事自体が生理的に受け付けないもの」かもしれないし、「仕事のスキルが足りなかったりスピードが遅くて自尊心が傷ついている」のかもしれない。そうしたら、前者なら「納得いく仕事を探して転職する」が答えかもしれないし、後者なら「スキルをためる」とか「無駄を省いて反復練習する」が答えかもしれない。つまり「嫌じゃなくなるように」対処するのだ。かなり些細というか、レベルの低い「攻め」で申し訳ないが、それでも私にとっては「仕事をできるだけ楽しく、そしてラクにするため」の思考なのだ。

他方で、「守り」の思考もある。それは「日々の生活が脅かされないようにするにはどうしたらいいか」ということ。

その視点で物事を考えると、実は身の回りに結構たくさんある。たとえば「会社」だ。「また仕事の話かよ」と思うかもしれないが、ちょっと違う。これは「雇用関係」とか「生活基盤」という話だ。

要するに、日々働いているけれど、もし急に「あなた、使えないからもう来月から来なくていいですよ」という可能性だってあるのだ。また、そこまで急な人員整理ではなくても、今までは理解のある素敵な上司の下でのびのびと働けていたかもしれないが、来月から異動があって急遽、社内でも有名なパワハラ上司の下で働かなくてはならなくなるかもしれない。そのパワハラ上司によって、心身ともにズタボロになって働くこともままならなくなる可能性だってある。

それが意味するところは、つまり「仕事」を失い、生活の基盤を失ってしまうということだ。

さらに言うと、仕事は辛うじて繋ぎとめたとしても、私生活が廃人のようになってしまうほど、仕事上のストレスを抱えてしまうことも考えうる。それは、人間関係かもしれないし、仕事の重圧かもしれないし、そのようにしてメンタル面で酷くダメージを受けて、肝心の自分の人生までボロボロにしてしまう可能性もあるのだ。

それらを防ぐという意味で「守り」の視点なのだ。その手段は幾つかある。もし「もう要りません」と言われる可能性がある(もしくはそう言われてしまった)なら、「あなたならどうしても欲しい」と言われる人材になればいい。プログラミングや資格試験、あるいは語学の勉強をするとかもいいかもしれない。

パワハラ上司や人間関係で悩みそう(あるいは悩んでいる)のであれば、彼らを気にしない強靭なメンタルやマインドを持ったり、その悩みのもととなる原因を突き止めて対処すればいい。もしかしたら、それは単純に仕事ができない自分のせいだったり、配慮の欠ける行動かもしれない。それらを補う努力をしてみるということだ。それでもどうしてもダメというなら、いっそ職場を変えるというのも手だ。

いずれにせよ、「仕事を続けるために」という視点が重要になってくる。それこそが「現状維持」だと、私は考えている。

4.そのために必要なこととは

では、ここまで長々と書いてきたわけだけれども、こと私に関して、今の生活を守り、そしてクビにならない程度に職場で役に立ち、仮にクビになったとしても食いっぱぐれないように、そして仕事をするなかでも良好な精神面を保っておくために必要なこと。

それが「勉強」だと思うのだ。

なんだよそんな結論かよ、という声が聞こえてきそうだ。しかしまだもう少し続けさせてほしい。

どういうことかというと、上で長々と書いた通り「勉強」は自分で行うものなのだ。そして、どんなものを勉強するのも自由。これは何と楽しいことか。

だって考えてみれば、自分のストーリーを自分で決めていいわけなのだ。自分がもしゲームの主人公だったら、どんな武器を持たせて攻撃力をどれだけ上げるのかも、どんな防具にして防御力を上げるのかも、自由。どんなパーティを組んで、どんな敵を倒せばいいのかも自由。なんでも許されている。

もちろん、法に外れた行為は許されないけれど、基本的には自分の人生を自分で好きにコントロールできるのだ。間違っても相手を動かすのではない、プレーヤーは自分だ。ゲームであっても「ボスキャラ強いからもっと弱くしようか」とかは出来ないはずだ。

それは分かるけれど、具体的にどうしたらいいのか。その答えが「勉強」だ。この言葉の意味はかなり広い。もう一度辞書の意味を載せる。

1 学問や技芸などを学ぶこと。
「徹夜で―する」「音楽を―する」

3 経験を積むこと。
「今度の仕事はいい―になった」

やることはこれだけだ。学べばいい。経験値を上げればいい。

もし上手く仕事ができないなら学べばいい。具体的に書こう。自分がインフラの知識が乏しいせいで、開発するアプリの処理性能がイマイチなものになっていると感じているなら、サーバやネットワークの勉強をすればいい。会計システムを刷新するにあたって、担当ベンダとの会議で今一つ踏み込んだ発言ができないのであれば、簿記や会計の勉強をすればいい。仕事柄ちょっと偏った例になってしまったかもしれない。とにかく学問なんていう枠組みにとらわれる必要もない。

また、どうも最近、営業成績が良くなくて、後輩に追い抜かれそうだと思うなら、恥を忍んでデキる人たちに教えを請うてみたらいい。それが嫌ならそれとなくロールプレイを提案してみたり、対人関係のコミュニケーション術を学んでみる。行動経済学とか心理学とかを学んだり、対人スキルを上げる方法を考えて実践してみたりする。話し方とか、聴き方とか、雑談の仕方とか、クロージングの方法とか、もしかしたら、提案資料のクオリティかもしれない。単純に、話すスピードが原因だったりするのかもしれない。それらを改善させるということだ。

私は営業職ではないのでトンチンカンなことを言っているかもしれないが、原則は同じことで、原因を見つけて(あるいはそれが分からなくても仮説を立てて)、対処すればいいだけなのだ。その手段が「勉強」だ。

仕事のやり方やコンテンツの改善だけではない。「どうしたら職場で人と上手く意思疎通が取れるか」とか「もし退職(転職)したら、どのような働き口ならやっていけそうか」とか「自分で仕事を作るだけのスキルは何があるのか」もそうだ。

もっと言うと「仕事めっちゃめんどくさいけど、これやっている時が一番楽しいな、落ち着くな」というものがあるなら追及する。のめりこんでみる。それは、仕事ではないかもしれない、趣味かもしれない。「勉強」は机の上でだけの作業とは限らない。

ただし、毎回それらの作業が上手くいくとは限らない。ちょっとやってみただけで全てが改善するような魔法の杖なんてものは無い。何ならこの記事では「勉強最高っすよね」と書いているように見えるが、私自身、それを使いこなすことだってほとんど出来てはいない。

それでも、少なくとも今の私にとっては、目の前にある問題に対峙して、それを攻略するための方法の有効な一つとして「勉強」があるということだ。何もしないよりは、何かした方がいい。物事を前に進めたいのなら。

結論.

そう考えると「勉強」とは、もしかすると、私にとってはこのような意味が案外最も近いのかもしれない。

2 物事に精を出すこと。努力すること。
「何時までもこんな事に―するでもなし」〈福沢・福翁自伝

結論。

だから、最初の質問に戻ってみた時、「勉強って好きですか」と自分に問うたら、こう答えるだろう。

「胸を張って好きと言えるか分からないけれど、毎日を良くするための勉強なら楽しいし、まあ好きかも」と。

余談

さて、かなり偉そうなことを書いてしまった。

私自身、学生時代(いや今もか)それほど真面目なほうではなかった。とはいえ、落第生であったかというとそこまでではなく、そこそこ勉強はできたほうだったと思う。いや、ちょっと話は盛ったかも。

とにかく、ここで虚勢を張ったり謙虚になってもどうかと思うので素直に言えば、北関東の片田舎のなんちゃって進学校の高校に通って、真ん中くらいの成績を維持しつつ卒業した後、一般的にはそこまで賢くはないけれどまあ聞いたことがあるかなという人が割と居るような、偏差値もたぶん今の基準では50そこそこのレベルの大学に進学し、ごくごく平均的な成績をおさめて卒業した。

だから、勉強に関して、正直こんな偉そうなことを書けるほど誇れる実績も何も無い。それくらい平々凡々な人間だ。当然、勉強は得意と言えるほどのものではなかった。

が、嫌いではなかった。

この辺の話は他の記事でも書きたいと思うが、私はなりたい職業があった。しかしそれを諦めて、今の仕事に就いている。結果、この仕事はすごく楽しいので満足しているし正解だったと思うのだが、やはり「高い学費を親に払ってもらったのにな・・」という思いはずっと残っている。形にならなかったな、そういう気持ちがあるのだ。

今こうして、大学で専攻していた学問とは全く異なる職業をやっているわけだけれど、それでも、ささやかながらでも大学で「学問」に触れたことで、まだ自分の中に「勉強する意欲」とか「知りたい気持ち」は消えないでいる。それは、自分が学びを貫き通せなかった未練のようなものかもしれない。だからこそ、仕事をするうえで必要な知識は選り好みせずに吸収していきたいという思いがある。

もっと言うと、多分それは、仕事を離れても、生活の中で人生の中で、自分の中で芯になるような軸になるような、そんな知識や知恵を「学問」から得ていたい、と思っている。ノウハウや情報レベルも悪くないが、体系立てて整理された学問には、力強い論理があるように感じる。当然それは完成されていないことは重々承知だが、発展途上だとしても、知の結集であることは間違いない。私の頭のレベルが低いせいで理解するのは困難だが、できれば、そこから自身の道標を得ていたいのだ。

それは言わば、あの頃の、かつて夢見た職業を志した自分に対して、せめてもの罪滅ぼしというか。そんなふうな思いがあるのかもしれない。言っている意味分からないですね、すみません。とにかく、こんなポンコツな私でも、学問には興味があるし、それは広い意味で、生涯をかけて惹きつけられるだけの魅力があるものだと思う。

というわけで、勉強は、自分で選ぶものなんだから嫌々やってもしょうがないし、それはきっとこの先の自分の支えになったり身を立ててくれるものではないかと信じている。


長くなっちゃったなー。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。

というわけで愛を語ってみました。片思いの。
おわり。