あさぶろ日記

note のほうに書いている記事を保管しているだけです。

ドライな関係と逃げ場の話。

モヤモヤする。

先日、息子が通っている学校関係でモヤモヤすることがあったと記事を書いたが、今回は、私の仕事関係でモヤモヤしている。

せっかくなので、そのモヤモヤを少し見つめなおして、言葉にしてみたい。


私がモヤモヤしている理由、それは直接的には、上司から言われた言葉によってだ。

特に、叱責されたとか激怒されたとか、あるいは人格否定されたとか、そういう言葉を吐かれたというわけではない。

事の発端は、昨日、私が今進めている仕事の中で、今ひとつ分からない内容があり、その相談のために上司に意見を求めたことにある。

すると、上司からはそのヒントが提示されたのだけれど、私としては発生している事象の詳細も分かっておらず、そのヒントの意味すらも要領を得なかった。だから、ひとまずは自分の分かる範囲で、とにかく調べて対処法を見つけ、「これでどうでしょうか」と質問した。

そうしたところ、「いや、そうじゃなくて。普通にこの仕様を調べてくれればいいだけだから」的な回答が返ってきた。

なぜか私はそれを受けて、心の中に一気に闇が広がったというか、まるでジワーッと得体の知れぬ黒い靄のようなものに覆われるような感覚をおぼえて、一言でいえば、不快、を感じた。

どうして不快に感じたのか、正直分からなかった。

情報のやり取りは全て電子の、つまりテキストメッセージでおこなっていたので、口頭や表情での微妙なニュアンスは分からない。最近なんとなく疲れていたこともあってか、「こんなん普通わかるでしょ」的な文面が、妙にグサッと心に刺さってしまったのかもしれない。(実際のメッセージは、そんなに嫌味っぽくはないのだが)

その時は、定時終了間際だったので、もうこれ以上調査を進めて回答を出しても、その後のやりとりで時間を費やしてしまいそうだった。そのため、そこで一旦やり取りはやめておいた。そういう未解決の状態も、もしかしたらモヤモヤがずっと残っている一因なのかもしれない。

そういうわけで、一晩寝たはずなのに、翌朝目覚めてもそのモヤモヤは晴れずにいて、こうして今、取り留めもない文章を綴ってみている次第だ。


少し落ち着いて、考えてみる。

今の職場に来てから、だいぶ年数が経っているが、割と心理的安全性は高い状態でやってこられていると思っていた。

それは、ひとえに職場の同僚や上司が穏やかで客観的で、いい意味でドライな関係で接することができていたからだと考えている。要するに、大人、なのだ。ギャーギャーと喚いたり、感情に任せて物事を進めていくような、そんな場面がほとんど無い。

課題があって、それに対して解決のために調べ、場合によってはチームで相談・協議して、対応策を試行錯誤しながら、検討していく。担当している業務の特性もあるかもしれない。言い方は適切なのか分からないが、人の心が介在して「嫌だなあ」とか「めんどくせえなあ」という気持ちが入り込んで、問題解決のモチベーションを妨げる要因になったりすることが、あまり無い。

とは言え、常にそうではない。

だからなのか、たまに、そういう「人の心」が揺さぶられて、負の感情が湧き出る場面に遭遇すると、ちょっと簡単に響いてしまう。それは往々にして、今回のケースのように、人間関係によって生じることがほぼ100%だ。

つまり、人と人とでやり取りする中で、特に私は「モヤモヤ」を感じる傾向が強い。


言ってしまえば、私は、他人が苦手なのだ。

家族がギリギリセーフのライン。もっと言うと、完全に心を許せるのは、妻と子供たちくらい。実家の親や、兄弟であっても、ちょっと気を遣うというか、一緒に居て心が安らげない時が正直ある。

例えれば、妻や子供に対して、私の心のシャッターは完全に全部が開いたままになっているが、心を許せない度合いによって、そのシャッターが開いている広さというか幅が変わってくる感じだ。それは当然、いくら親しい関係の友人もそうで、ましてや職場の同僚や上司に至っては、むしろ心のシャッターはほとんど閉じかけた状態だ。

ただその状態でも、「仕事」をするという目的を果たす場合においては、良い方向に働く。ドライな関係で、言わば「心」は見せなくても、そして同時に相手の「心」を見ないで済む状態で、物事を進めることができる。無闇に心の声を取り交わさずとも、あくまで事実の情報交換をすればいいだけなのだ。それが、私にとっての働く上でのベストな距離感なのかもしれない。

だから今回、つい、上司から、生の声というか剥き出しの感情みたいなものが見えてしまって、直接それが私の心のシャッターに入り込んで、居心地の悪さを覚えてしまっていたように思う。

言ってみれば、テキストメッセージであったとしても、「大人」の表現でない、少しぶっきらぼうな、感情の混ざった表現になっていたことが、私をモヤモヤ状態にしていたのだ。つまりは、「言い方」ということだ。

色々考えてみて、少し納得。私はそういうちょっとしたことが気になる、なんとも器も小さい臆病者なのだ。


私がモヤモヤを感じたメカニズムが少し見えてきたところで、少し強引だが、結論に持っていく。

こうして、この記事を書き始めの時の気持ちと、今ここまで書いてきた気持ちとでは、少し状況が異なってきていることを自覚している。

それはつまり、「文章にして、客観的にしてみて、少し落ち着いた」ということだ。

何かイライラしたり嫌な気持ちがあっても、紙に書き殴ったりすると、結構その気持ちがマシになることはよくある。

今回の私はまさにそうで、というか、もしかしたら私の他の記事をいくつか読んでくださっている読者の方が居たらお気付きかもしれないが、私は、何か不満や愚痴、嫌なことがあると、つい文章にしてしまう。言わば、自分のその時の気持ちを吐き出して、目に見える状態にしたくなってしまう。自己満足で大変恐縮だが、それで自分としては、多少気が晴れるところがあるのだ。

だから今回も、こう書いてきて「ああ、仕事の場面なのに、大人気ないような、幼い言葉を遣いされたことが嫌だったんだなぁ」と気付いて、多少モヤモヤは薄らいだ。これで、一旦この問題を心の外というか奥底に追いやって、土日を過ごすことができそうだ。

これはあくまで私の一例だが、一つの手段、逃げ場があるというのは、大切なことだと思っている。

今回は仕事関係でモヤッたわけだが、それは、きっと今まで「安心」していたところに今回のように不意に心を乱される事情が発生したことが原因だ。その「安心」が脅かされたということだ。

しかし、よくよく考えたら「だからどうした」ということでもある。

仕事で受けた嫌なことは、仕事の場で解消していく方がベストだ。完結できるならそれでいい。けれど、別に他の場所で、少し気持ちを落ち着けてみることも、悪くはない。それが私にとっては、こうやって文章にしてみたりすることだったりする。一度言葉にしてしまうと、なんとも「ちっぽけな」悩みであったのかということに気付いたりもする。(ただ、文章化する時にあまりに感情に任せて書くと、後で見返して赤面する可能性あり)

最も精神衛生上良くないことは、仕事で感じた不快感を、家の中に持ち込んで、モヤモヤした気分や、グツグツ煮えたぎる負の感情を持ったまま、人生の時間を楽しく過ごせないことだと、私は考える。

だから、それらを少しでも薄めたり、減らしたり、忘れたりする手段として、つまり「一回逃げちゃう」場を持っておくことは、自分自身を守るためには、とても大事なことだと思う。

別にいいのだ、仕事で嫌な思いをしたって、どうだっていい。どうでもいいことなのだ。私には私の自由があるし、私の幸せを求める資格がある。そんなくだらないノイズに振り回されるほど、暇じゃないのだ。こんな馬鹿馬鹿しいことに心を傷つける必要なんて全く無い。

ちなみに、そうは言っても文章にしてみても何ともまだ心が晴れない場合もある。

そのような時には、私は読書をする。夢中になれるくらい興味があったり面白い作品に没頭するのもいい。しかしそれでも気が紛れないようなら、それならいっそモロに「悩み」に関する内容のものがいい。最近では私はカーネギーの「道は開ける」がお気に入りだ。それを読むと「ああ、先人もこんなことで悩んだりしてたのか」と思えて気が楽になる。この本の良いところは、お悩み事例の共有だけではなくて、その解決法も、結構具体的に書かれていることだ。話が脱線するのでその件は記載を割愛させていただくけれども。

というわけで、誰の得になるか微妙なところだが、以上が、私が実践している対処法だ。

ああ、多少スッキリした。お目汚しで大変失礼しました。おしまい。