あさぶろ日記

note のほうに書いている記事を保管しているだけです。

白か黒か?の話。

夏休み明け。

小学生の息子が始業式を終え、学校から幾つかのプリントを持ち帰ってきた。それを読んでいて、なんとなく考え込んでしまった話。

またちょっと愚痴っぽくなります。そういった類の話が苦手な方はそっと引き返していただければ・・

※かなり長いです。


「ホワイトな職場」のために

息子が学校から持ち帰ってきたプリントの中には、学校側として「あれをやりません」「これもやりません」といった、いわゆる「今までこういうことをやっていましたが、今後はやらないようにしました」的な内容が書かれていたものがあった。

詳しくは書くつもりはないのだけれど、要するに、目的は「教職員の負担軽減」ということらしく、それまで勤務時間外などにおこなっていた業務やら何やらは、どんどん減らしていきましょう、ということが趣旨として書かれていた。

つまり、職場環境の改善、今流行りの言葉で言えば、働き方改革、ということになるのかもしれない。

ところで以前、記事で、通信簿の所見欄をバッサリ省略されたということを書いた。

これもその一環で、言ってみれば、先生も従業員なわけで、色々と無駄な業務は省いて「ホワイトな職場」を目指すというわけだ。

これに関して、私は、なんとなくモヤモヤする感じがあるのだ。

「無駄」な仕事とは?

さて、ここから先は、完全に私の独断と偏見なので、偏った思想と視点であることを事前に断っておきます。

学校関係者の方々には不快な思いをされる方もいらっしゃるかもしれない。恐らく、文句を垂れ流すだけの記事になってしまう可能性が高いので、先に謝ります。ごめんなさい。


さて、「ホワイトな職場」が何なのかは人によってその解釈は異なったりするかもしれない。一般的には、給料が高いとか、休みが多いとか、働く時間が長すぎないとか、ワークライフバランスが充実できるとか、仕事にやりがいがあるとか、人間関係が良好とか、そういった要素で構成されるようなイメージがある。

だから、そういう職場環境にするために、まずは「勤務時間の短縮」とか「仕事のやりがい」を実現することを目的として、それまでおこなっていた業務のなかで「無駄だ」とされるものがあるのであれば、バッサリとカットされることは理解できる。コストは無尽蔵にあるわけではないからだ。

ただ、その「無駄だ」の判断は、一体誰が、そしてどのようにしておこなったのだろうと思ってしまうのだ。

その「無駄だ」とされる業務(そう考える人にとっては「業務」というより「雑務」と考えているのだろうが)に、救われていた児童や保護者って、本当に居ないのだろうか。

私個人としては、上にも書いたように「通信簿の所見欄」は、学校からのアウトプットとして何より楽しみにしていたものなのだけれども、結局、省略されることになった。これは、ちょっと乱暴な言い方をさせてもらえば、学校側としては「先生が児童一人一人の所見欄を考えて記載する時間」=「無駄」と判断したということだ。

詳しく書かない(繰り返し言う)が、そのプリントに書かれていた「もうやりません」という業務は、学校が「無駄だ」と判断したのだ。何より教職員の労働環境を善くするために、こんなものに割くエネルギーや時間が勿体ないということなのだ。

しかし、私にとっての「通信簿の所見欄」と同様に、何か、心の拠り所と言ったら言い過ぎかもしれないが、その一見「無駄だ」とされることを望んでいた児童や保護者が、救われない結果にならないか。心配に思う。

それって、ちゃんと捨てていいものを選んでから捨ててるんだよね?」と。

先生もロボットではないし、生きている人間なのだから、「24時間フル稼働で生徒のことを考えて人生を全て捧げろ」なんてことを言うつもりは毛頭ないが、「働く環境のホワイト化」が、なんとなく目的になっているように見えたりする。いや実際、目的は目的なのだろうけれど。

ただ、単純に「仕事を減らす」ということだけを突き詰めていくと、何か大切な「仕事」まで減らしてしまうことにならないか、なんて思ったりするのだ。

もちろん、教育関係の方々は、私なんかとは比べ物にならないくらい遥かに頭のデキが良いはずなので、そのような短絡的な思考はしていないとは思うのだけれど。

「ホワイト」か「ブラック」か

他方で、「職場のホワイト化」ということを考えると、そう簡単にいかないというか、そこには微妙なバランス感覚が必要とされるような、難しい部分があることも感じている。

少し、それについて考えてみたい。

架空の飲食店の話

たとえば、今まで365日24時間営業しているお店で、従業員は人手も足りないものだから、長時間労働や深夜残業、休日勤務なんかを余儀なくされている状況があったとして。それで給料も安い、同僚や上司との関係は悪い。おまけに違法行為も蔓延っているし、人権侵害のような扱いを受けている。ということであれば、その労働環境は、紛れもなく「ブラック」なわけで、そんなところからは一刻も早く逃げ出したほうが良いということになる。

ただ、そういう環境に、経営者側が気付いて、幸いにも、「これはけしからんぞ。何とかしないとイカン」となった場合、何かしらの改善のアクションをとったとしたら。そこで「わが社もホワイトな職場環境にしよう」ということであれば、やはりまずは従業員にとって「負担」となっている部分を削ることになるかもしれない。

24時間営業していたのを、9時~20時までの営業にします、とするかもしれない。毎週月曜日と水曜日はお休みにします、とするかもしれない。それでたしかに従業員は、勤務時間の短縮という意味で、働く環境は改善される可能性はある。ホワイト化、に一歩近づくわけである。なにせ「負担」は大幅に減ったことになるわけだから。(勤務時間以外の諸問題は一旦置いておくとして)

当然「ブラック」よりも「ホワイト」な職場環境のほうが良い。働く側にとってはそのほうが圧倒的に望ましい。

しかし、私は、すごく穿った見方で恐縮だが、「供給」側のホワイトは、必ずしも「需要」側にとっては嬉しくはないこともあると思うのだ。

なぜなら、あくまでそれは「供給する側」つまり「働く側」の論理だからだ。「白か黒か」の議論は、言ってしまえば「提供する側」の枠組みの中の話だ。職場環境の良好さが、結果として客のためになる可能性はあるが、それだけを目的としてしまうことによって、「提供される側」である客を置き去りにして、残念な結果を招くことにもなりかねない。

上の例で言えば、それまで24時間やっていたから、もしもの時に駆け込んで助かったお客は、今後は救われないことになる。毎日仕事が20時に終わってから、そのお店に行くことを楽しみにしていたお客は、日課である楽しみを実現することはできない。

某インフラ会社に問い合わせた時の話

私の貧相な文章力では、もしかしたら読者の方にあらぬ誤解を招きそうなので、他に例を挙げてみる。

私は最近、とあるインフラ関係の会社に、自身の加入サービスについて問い合わせたい内容があったので電話にかけた。すると、音声ダイヤルで「チャットボットで問い合わせてください」と言われたので、それに従ったら、チャットボットで訊いてみたところ、「マイページにログインして確認ください」と案内された。マイページで見ても今度は「チャットボットで問い合わせてください」とあり、機械的たらいまわしをされたことがあったのだ。

結局、なかなか繋がらなかったが、長い時間をかけて粘って、サポート窓口に電話窓したところ、数秒で解決した。というより、「それは再発行手続きするしかないので、こちらでやっておきます」と言われて終わりになった。

これは、働く側の業務効率化のために、「電話で応対しなければならないような面倒な業務」は、出来る限り省きたいという仕組みが背景にあると踏んでいる。結果として働く側はたしかにラクになっただろうが、こちら側、つまりユーザ側としては非常にストレスを感じた。

「白か黒か」の外にあるモノ

だからと言って、誤解しないでいただきたいが、24時間365日常にお客のことを考えて、何が何でも「お客様」的なサービスをしろ、ということが言いたいのではない。私自身、働く時間は少ないほうが良いし、面倒な客はできれば相手をしたくない。自分の身が一番可愛いからだ。

私が言いたいのは、もしかしたら、私のような面倒な客(や児童・保護者)が居るせいで、お店(学校)側の負担が大きくなっている事実があるにせよ、もし、何かのサービスを廃止するとなると、その一方で助かっているお客(や児童・保護者)も切り捨てることになりかねない、ということなのだ。それを踏まえておかないと、いつか痛い目を見るかもしれない。

もちろん、それは会社やお店であれば経営判断になるし、学校も教育機関として、同時に、教職員を守る法人として判断した結果だ。

24時間営業ではなく、20時までの営業にすることも会社側の自由だ。電話対応を極力減らす取り組みや仕組みも、その企業が決めていい。法人側、提供者側に決める裁量がある。そのような施策を打つ背景には、恐らく緻密に計算された経営判断が存在しているはずだ。「どうビジネスの舵取りをするか」というその判断に、いちいち客の細かい注文など聞く必要は無いことはたしかだ。

そして、最終的にはその判断に、お客や子供側である我々は、従わざるを得ない。どんなに納得ができない方針であっても、強者の判断に従わない選択肢は無い

なぜなら、儲けが出ない事業は縮小させたり、いっそ畳んだ方が会社の未来のためだし、従業員が快適に働くためには面倒で時間のとられる業務は無くした方がいいし、マトモな人間として生活できないほど過労を強いるような環境であれば改善しなければならないからだ。そこに、サービスを享受する側、つまり弱者の側の都合や論理などは、その決定に際して必要とされていないのだ。

しかしながら、もし、万が一そういったことも全く考慮をせずに、単純に「黒ければ白くすればいい」という発想にとらわれすぎて、その目的だけを果たすために、力のある一部の人間がそれを決めていたとしたら、もしかしたら大切なはずの「仕事」まで削ってしまってはいないか。それが気になるのだ。

「判断」のプロセス

そういう色んな状況を踏まえて、「判断」がされるべきだと私個人は考える。

ましてや、学校などの教育機関なんて、規模の小さい個人商店がオーナーの一言で経営方針をガラリと変えることとはワケが違う。

学校において、仮に「(ある取り組みを)やめます」ということを決定する場合、そこに通う児童もそうだし、保護者もそうだし、何なら教職員も納得して、できる限りの関係者たちが協議の上で合意した結果として、そういう状況を受け入れてきたのかな、というところが引っかかってしまうのだ。

もしかしたら、これはあくまで、我が家の子供が通っている学校に限った話なのかもしれない。何度も例に挙げて恐縮だが、通信簿の件もそうなのだけれど、ちょくちょく学校からのプリントを見るたび、「この通り、通知しましたからね」という、何とも一方的なやりとりに感じてならないのだ。

そこに、コミュニケーションは存在しているのかな。そう思ってしまう。

「コミュニケーション」の必要性

じゃあお前はそうできているのか。
そう自問してしまう。

もちろん、私も働いている身として、何かサービスを提供する側の時には、現実問題、全ての顧客の意見を聴くことはできない。そこで、取捨選択をする。申し訳ないが、重さ/軽さ、を付けるのだ。要するに、優先順位というものだ。重大さとか緊急性を考慮して、何をすべきで、何をすべきではないか、するとしてもそれを今すぐすべきか、ある程度は猶予があるのか、それを判断する。その過程で切り捨てることになる顧客が居ることも認識している。

だから、もしそういった「一部の顧客に不利益になりかねないこと」を選択しなければならない場合には、できるだけ納得してもらいやすいように、受け入れてもらいやすいように、「対話」とか「コミュニケーション」が必要になってくる。その方法は様々だが、直接話す場合でも、連絡や通知という形式の場合もある。どのような方法であっても、顧客には「その選択をしたことについて納得感」を多少なりとも持ってもらわないといけない

100パーセント、完璧に、全てそうできているかというと、もちろん、独り善がりな部分はあるとは思うが、出来る限り寄り添う必要がある。

そして、そこにあるのは、「できるだけ一人一人の顧客を大切にする」という気持ちはもちろんだが、もっと生々しい言い方をすれば、そうでないと、顧客からそっぽを向かれ、愛想をつかされることになって、自分の「仕事」は成り立たなくなる可能性があるからだ。独善的な態度は、いつか身を滅ぼしかねない。

だから、仕事においては、「提供する側」であったなら、なおさら、お客とコミュニケーションをとることが大事なのだ。自分の身を守るためにも。少なくとも、そう私は思う。

超一流のビジネスマンや巨大な権力をお持ちの偉人の方ならそうではない考え方もできるだろうが、悲しいかな、私のような平々凡々のサラリーマンの場合は、そうして自分の食い扶持を稼がなければならないのだ。

言わば、サラリーマンとして、仕事をする身としては、当たり前に持ち合わせておかなくてはならない(と同時に、私にとってはほとんど使いこなすことができないながらも使わざるを得ない)武器として、コミュニケーションというものが存在するのだと私は考える。

結論

今回のことで、なんとなく、強者の論理というか、支配的というか。学校というものに対して、そんな印象を受けた。

自分を守る必要が無いのか、そもそもそのような発想が無いのか分からないが、あまりに学校と我々保護者との力関係みたいなものが圧倒的に違いすぎて、若干の気持ち悪さというか、胸やけみたいなものを覚えてしまう。

「ああ、学校って、こんなに一方的に物事が決まっていくのね」みたいな。

ある程度、仕方ない部分があるとはいえ、ちょっと考え込んでしまった。そんな話。


もともと学校自体、私はあまり好きではなかったけれど、親の立場になってみても、やっぱり苦手なのは変わらないんだな、と実感した。

というか、ここまで書いてきて気付いてしまったかもしれないけれど、「保護者」と言って代弁しているような形に見えるが、実際には全部、私自身の捉え方の問題のような気もしてくる。

結局、私は学校が苦手だというだけの話なのかな。

せめて、自分の子供は学校が好きなまま、大きくなってほしいな。いや、別にそんなこと望んでないか。好きだろうが好きではなかろうが。まぁいいや。子供たちは、私が学校に対して感じていたような不信感というか居心地の悪さを抱かないくらい、楽しく過ごしてくれればいいな。それだけです。おしまい。