あさぶろ日記

note のほうに書いている記事を保管しているだけです。

時間の感度の話。

残りの時間をデジタルに認識してみると、見えてくるものがある気がする。


お盆休みだ。

いや、世間はお盆休みだったかもしれないが、私の勤め先はそういう休暇制度もないし、そもそも休みが少ない会社なので、お盆の期間とは言え、普通に仕事をしていた。

おまけに、この時期、子供たちの学童保育や保育園もお休みしていたりするので、必然的に家で仕事をしながら子供と一緒に過ごすということになる。在宅で勤務しながら子守をすることのアレコレなどは、以前に他の記事で書いた気がするので割愛する。

さて、子供と一緒に居る状態で、家で仕事をするというのは、想像以上に大変というか何というか。

ただ、ある時ふと、「こういう状態は一体いつまで続くものなんだろう」と考えてみた。


我が家の子供たちとその遊び方のトレンド。

息子は現在小学二年。まだ一人で出かけて友達と一緒に遊びに行くというようなことをしていない。私がその年齢くらいの頃には一人で出かけていた気もするけれど、今は時代が違うのか、住んでいる町の違いなのか、我が家が過保護なだけなのか。私も妻もフルタイムで働いているため、学童保育に預けている状況だ。

娘は保育園の年中。こちらも一人で出かけて遊ぶということはまだしていない。そういった状況だと、子供たち二人は家で遊ぶ。時にケンカもよくするけれど、基本的に二人とも仲が良く、一緒にぬいぐるみを使って遊ぶ(「人形劇」と彼らは呼んでいる)というのがお気に入りの遊び方だ。

「ちょっと幼すぎる遊びではないかな・・」と思うこともないわけではないが、よくよくその様子を見ていると、彼らなりにシナリオを即興で考えて、それぞれのキャラクターに役割を演じさせたり、お互いにその場面に応じたセリフをそれぞれに言い合ったりして、理想のストーリーを作り上げているようだ。一見幼稚にも見えるが、そうやって遊ぶことによって彼らの想像力(創造力)が刺激されていることもあるだろうし、セリフの言い回しも日本語の学びにもなっているような気もする。そのため、基本的には何も口出しせずに見守っている。

ただ、息子は何よりもゲームが大好きなので、人形のごっこ遊びには早々に飽きて、ゲームをやりたがる。ゲームをやるためには、ある程度は勉強をやってからにしてね、という我が家のルールがある。そのため、息子はそのルールに従ってすごい勢いでドリルをこなしていく。

一方で娘は、人形遊びを一緒にする相手がゲームに興じ始める(または勉強に取り組み始める)と、手持無沙汰になる。そうすると、一人で塗り絵をしたり折り紙を折ったりするのだが、それも飽きてくると、親に頼んで、好きなキャラクターのイラストをネットから拾ってきて印刷して鑑賞したり、折り紙やお絵かきも親と一緒にやりたがる。

以上が、我が家の子供たちと、その遊び方のトレンドである。

これが休日なら家でそうやって遊んで過ごすことは問題ないのだけれど、平日で家で仕事をするとなると、なかなかしんどい。

まず、上で書いたように、息子はゲームやりたさに勉強を頑張ってやるのだが、ひとたび分からないところがあるとすぐに「あー分からない」「どうすればいいの」「俺はこんなのやりたくない」などと不平不満を漏らす。こっちは別に勉強をしろとは言っていないのでやりたくなければやらなければいいのに、と返すと、それも納得いかないようで怒っている。

娘も、基本的には一人で遊んでくれるのだけれど、飽きると「ラプンツェルを出して(印刷して)」とか「きゃりーちゃんのやつ(きゃりーぱみゅぱみゅのMV動画)観せて」とか、リクエストがたくさんやって来る。

それらをこなしながら仕事をするなんて、正直集中もできないし、捗りはしないので、申し訳ないが、最近では開き直っている。もう無理。仕事しながらはやっぱり無理。

とはいえ、急ぎだとか打合せだとかで自分以外の人たちに影響する系のタスクはさすがに、ちょっと集中しないといけない。そういうときに、子供から作業依頼が来るともうちょっと辛いわけで。

その時、「こんな日がいつまで続く」と思ってしまう。

が、本当に「こんな日がいつまで続くか」を考えてみると、ちょっと気が楽になるというか、むしろ愛しささえ感じられた


実際に、数字にして考えてみる。

息子は小学二年。上でも書いたけれど、まだ一人で出かけて遊びに行ったりはしない。けれど、小学三年にもなったら学童保育も終わりにしようかと考えている。そうなったら、彼は友達と外で遊んだりすることもあるだろう。家でゲームをやることが何より好きなのでそれは変わらないかもしれないけれど、割合としては段々と外遊び(親なしで)が増えてくるはずだ。

時間としては、あと1年。1年は365日。彼がゲームをやりたくてそのために勉強をやるとして、分からない問題にウダウダ言うとしたら、それは基本的に休日だ。365日のうち、土日祝日が何日くらいあるか。大体120日くらいだろう。そうすると、仮にすべての休日をそのようにウダウダ言うとしても、120日。ウダウダを聞くのも残り120日くらいだ。

それから、彼が中学、高校と上がっていって、いつまでこの勉強&ゲームのルールが適用されるか分からないけれど、さすがに中学とか高校になれば親と一緒に勉強するなんてことは想像できない。今はリビングとか私の仕事部屋で机を並べて勉強しているが、その頃には自分の部屋で勉強するだろう。そうなると、彼は今7歳だけれど、中学に上がる12歳までの約5年間くらいしか一緒に勉強の見守りはできない。これも休日が1年で120日だとするなら、残りは600日。二年も無いのだ。

娘のことも考えてみる。傍でイラスト印刷してあげたり、逆に彼女からお絵かきや折り紙をレクチャーしてくれる日なんて、残りどれくらいか。今は5歳だけれど、そういう遊びはきっと小学生に上がったらほとんどやらなくなると思う。やっても親は巻き込まずに一人で遊ぶのだろう。そうなると、小学校に上がるまでの残り1年くらいだ。これも、休日だけそれをすると仮定すると、120日。キャラクターイラストの印刷とか、きゃりーちゃんのMV鑑賞とかは、120日しか一緒にできないということだ。

最近、子供たちをお風呂に入れるのも大変なのだけれど、これも数字にすると、ちょっと見えてくるものがある。

息子のほうは本当はもう一人でお風呂に入って頭も体も自分で洗えるのだけれど、寂しがり屋なのか、今でも親と一緒に洗いたがる。それに付き合うときに私は「そこまで浴室広くないんだし、さっさと一人で入浴してくれないかなぁ」なんて思ったりするのだけれど、彼が一緒にお風呂に入ってくれるなんて、一体いつまでだろう。彼は小学二年だけれど、さすがに中学生になってまで一緒に家のお風呂に入る想像ができない。となると、小学生までか。小学六年でも想像できない。そうなったら、やはり3年生とか、大きくても4年生か。残り、1~2年。毎日お風呂に一緒に入って、365日。多くても730日。

娘も、今は一緒にお風呂に入って、頭や体を洗ってあげているが、そろそろ自分で洗うように仕向けている。女の子がどれくらいの年齢まで親と一緒にお風呂に入るものか、一般的な相場みたいなものは分からないが、きっと小学生になったらもう親とは入らないだろう。少なくとも、父親とは入らないような気がする。そうなると、残り1年。365日くらいだろう。妻が娘と一緒にお風呂に入る日を考慮すると、私が一緒に入る日はそれよりもずっと少なくなる。だいたい半分としても、160日くらいかもしれない。

残り回数、と考えて、まとめるとこうなる。

  • 息子の勉強の文句を聞く回数:120回
  • 息子の勉強の様子を傍で見る回数:600回
  • 娘とお絵描きしたり折り紙する回数:120回
  • 息子と一緒に家の風呂に入る回数:300~700回
  • 娘と一緒に家の風呂に入る回数:160回

数字にすると「もうこんなに少ないのか」と思ってしまう。

子どもたちがケンカして、それで「やめろー!」と怒ったりすることも多いけれど、その回数だって、計算してみたらもしかしたら残りはかなり少ないかもしれない。子供も成長していく。だからこそ「あーもう」と思ってしまうことであっても「今だけ」であるかもしれない。少し、寛容になれるような気もする。

デジタルに表現することで、見えてくるものがあるかもしれない。


だいぶ昔のお話。
ベンチャー寄りの会社に勤めていたことがあった。

その頃の話はまたどこかで記事に出来たらと思うのだけれど、その会社の経営者が非常に「数字」を意識して話をする人だったという印象がある。

やれ、このマーケットは●●万人だから、とか、このエリアは〇〇人いるから、とか、この事業は▲▲千万円の見込みがあるから、とか、少し話をするだけでそういった内容のことがポンポン出てきていた。従業員数は数十人規模の会社であったのだけれど、常に数字の感度を高くしているように見えた。

彼が元来そういうタイプであったのか、経営者としてやっていく中でそういう感覚が研ぎ澄まされていったのか分からないが、私も、もう社会人生活を十何年続けていく中で、様々な場面で、そういった数字の感度を上げていく必要性に迫られてきている。今まで私自身、実はあまり数字が強くなくフワッと生きてきたので、ちょっとそろそろバージョンアップさせていかなければと思っている。逆によくこのスキルでここまで働いてこられたなと。今になって実感している。余談でした。

もちろんそれは業務的な話だけれど、数字にするというのは、目で見てはっきり分かるということなわけで。時間的な連続性からその変化も細かく把握できるし、情報としての精度が上がるということでもある。

ただ、業務とは関係ないところであっても、たとえば上で書いたような「残り時間」ということを数値化してみることで、現在の大切さのようなものに、少し気付くことができる気もする。


と、良いことだけで話を終わらせても良かったけれど、そういうわけにはいかない。

そこは「あぁやっぱり子供は可愛いね」「家族は大切にしなきゃね」というだけで終わらない。それは当然なのだけれど、私は人間的にレベルが低いので、つい子供を怒ってしまう癖はなかなか治らない。綺麗事だけで終わらせたとしても、多分すぐに忘れる。私は、そんなに出来た人間でないのだ。威張るようなことではないけど。

しかしそれでも、努めて意識して、反省すべきところは反省して、改善・改良していくしかないかな、と思っている。怠慢な態度は改めていきながら。愚かさは受け止めて、変えていく。出来るところから、少しずつでも。

そして多分これは、何となくだけれど、自分自身も試されているように思う。今回の「感度」の話もそうだけれど、色んな角度から、試みるしかない。泥臭いながらも。模索し続ける。生きるということを。

そんな感じのことを思った、お盆でした。おわり。