あさぶろ日記

note のほうに書いている記事を保管しているだけです。

遊ぶってどうやるんだっけという話。

先日、乗っているクルマの調子が悪く、自動車ディーラーに診てもらいに行った。

調べてもらったところ、どうやら修理に一時間ほどかかるということで、私は本でも読みながら待つことにした。休日だったため、子供も連れて来ていたのだけれど、上の子(小学生、男子)は持参したタブレット端末で好きな動画を観ながら過ごしていた。他方で、下の子(保育園生、女子)は、ディーラーの店舗内にあるキッズスペースにオモチャなどが置いてもらってあったので、そこで遊んでいた。

その時は「それぞれの過ごし方があるなぁ」なんて思って自分も読書に耽っていたのだが、ふと気付くと、話し声が聞こえる。大人ではなくて子供の。何だろうと声の方向に顔を向けてみた。キッズスペースで話している。うちの娘だ。何やら同じくらいの年齢の女の子と話している。ケンカとか揉めているわけではなさそうだったので、ひとまず見守るというか、そのまま放っておいてみる。

で、修理も終わりそうというところで、娘もキッズスペースから私たち家族のところに戻ってきた。「一緒に遊んでたの?」と娘に訊くと、

「うん。あの子たちとね、お友達になったの。
 あの子は6歳なんだって」

とのこと。へえ、小さいながら、こんな交流というかコミュニケーションをとっていたんだなぁと感心。

その後、その娘が一緒に遊んでいた女の子が私たちの待っているテーブルというかブースにやって来て、プリキュアのオモチャとか色々なものを、私たち家族に見せてくれた。その子の傍に居たお父さんは、少し戸惑っていた。娘さん、社交性があるんだなぁ。


それから別の時の話。

公園内に併設されている、ちょっとした水遊び場に家族で遊びに行った。

息子も娘も水着を着用して準備万端でバシャバシャと遊んでいた。他にも子供は居たけれども、あんまり子供同士の交流というのは無くて、あくまで家族内で遊んでいる感じだった。うちの子たちもそうで、兄妹で水掛けしたり駆け回ったりしていた。

そんな時、何やらお父さんと男の子の二人で来ていたと思しき親子。お父さんは少し離れたところのベンチに座ってスマホをいじっていて、たまにお子さんの様子に目を向ける程度。お子さんの方は、水着ではないけれど、普通の洋服で水遊び場でチャプチャプ遊んでいて。何やら、お父さんに対して大声で何か言ってる。「ねえお父さん、遊ぶの言っていいー?」とか。

その様子を、何だろうと思いながら眺めていた私。するとその男の子は、近くに居た私の子供たちに向かって「一緒にあーそーぼ」と声を掛けていた。

遠巻きから、さて子供たちはどうするのかな、と私は見ていたら、特に返答らしい感じはしていなくて、またそれぞれに遊んでいた。まぁ初対面だし引っ込み思案だしな、と思っていた。

しかし、数分したら、なんと、娘とその声を掛けた男の子で、一緒に、水掛けしていたり、水辺に寝そべったりして遊んでいたようだった。他方で、兄貴の方はマイペースで、特にそんな様子にも気に留めず自分だけの遊びのスタイルを貫いていた。

水遊びも終わって、子供たちが帰って来たので、娘に訊いてみる。
「あの男の子と一緒に遊んでたの?」

すると、

「うん。一緒に遊んだの。ゴーグル貸してあげた」

とのこと。

へえ、娘はシャイなほうなのかな、と思っていたのだけれど、実は結構社交的なのかもしれない。たしかに、思い返してみれば、娘は保育園の同じ組のなかでも、生まれは早い。だから他のクラスメイトの子たちで、まだあまり大きくない子たちの面倒を見ている、所謂しっかり者の「お姉さん」タイプということを保育士さんから聞いたことがある。

それにしても、「遊ぶ」って、子供にとっては当たり前にありふれた行為で、一瞬にして見知らぬ他人を「友達」にしてしまうんだな、と思った。

では大人は、どうなんだろう。

まぁ私は社交性も低いし、コミュニケーション低能力者なので、一般的な「大人」のモデルとしてはかなり不適切なのだろうけれども。それでも、子供の頃や、学生時代は、彼らのように友達と一緒に遊んで過ごしてきていた。それがいつしか、「遊び」とか「友達」というワードと程遠い生活になっていることに気付いた。

昔は、「遊ぶ」という行為が、何か一緒のスポーツをしたり、ゲームをしたり、買い物をしたり、といったことを意味していた。今は、どうだろう。友達自体それほど会うこともなくなったし、会っても一緒に食事をしたり、お酒を飲んだりするくらい。家族とも「遊ぶ」ということはするけれど、どちらかというと、子供たちが「遊ぶ」状態をサポートするというか、親としての役割になっている気がする。自分自身が「遊ぶ」状態になっているかというと、ちょっと違うような・・。たしかにドライブ行ったり温泉行ったり美味しいご飯食べたりはするけれど。

そう考えると、もしかしたら「遊ぶ」こと自体、日常生活の中で少なくなってきているのかもしれない。大人ってこんなにつまらないものなのか?なんだか寂しい限りだ。

いや。違う。

しかし、発想を変えて、意味を捉えなおしてみよう。「何か具体的な目的があってそれを達成するために一人若しくは誰かと一緒に行動を起こし、結果を享受する」そんな狭い意味の「遊ぶ」ではない。もっと広く「心の向くまま、気の向くまま、楽しいことをする」と考えれば、生活の中でも少しでも見つけることが出来そうだ。もっと広義に考えてみるのだ。

私は、一応、ITエンジニアのはしくれなので、自動化プログラムとかスクリプトを組んだりするのは嫌いじゃない。記事にもしているけれども、趣味で、note のエクスポートをしてみたり、デスクトップアプリに表示してみたり、ファイルに書き出したり、そういったことを試行錯誤しながら、なにかプロダクトを作ったりすることは、楽しい。誰かに言われてやっているわけではない。自発的に、勝手に、好きでやっていることだ。

もちろん仕事ではないから、そう思える部分もあるかもしれない。しかし、仕事の中でも、そういう業務自動化は割と好きだ。パソコンを使って仕事をする機会が多い現代は、大きな仕事の中にある細かい作業には、何かしら簡単な自動化・仕組化はできる余地がある。そういうのを、気分転換でやったり、あるいは幸運なことに依頼されて「業務」としてやったりすることは、やっぱり楽しい。

仕事であろうが仕事ではなかろうが、そういう感情を抱いて夢中に取り組んでいるということは、きっと「遊び」の領域になっているのだろうと思う。

他の人から見れば「面倒」「苦労」「苦痛」だとしても、自分にとって「楽しい」のであればそれはもう「遊び」になるのかもしれない。これは私の例だけれど、別に私自身スキルは高くないが、「やってて楽しい」と思えるなら、それでいいのかもと思う。

「何のために遊ぶのか」とか「遊ばなければいけない」とか、そんな畏まって考えるというより、結果的に「遊び」になっているというのは、恐らくだけれど、なかなか自分の財産になっているように思う。経験上。

うーん、何の話か、とっ散らかってしまったけれど、結局、子供たちは、私なんかよりもずっと社交的だし、そのままで素晴らしい人間性だと思った。それを、大人の勝手な常識で縛ったり、押さえつけたりすることはしないように、気を付けていきたいな。おわり。