あさぶろ日記

note のほうに書いている記事を保管しているだけです。

親の心、子の心、の話。

先日、スーパーへ買い物に行った時の話。

買うものを選んで、レジの列に並んでいた時のこと。いきなり、こんな声が響いた。

「お前、早く下がれよ!邪魔になるだろ!」

なんだなんだ、揉め事か?と、野次馬根性丸出しの私の悪い癖が出てしまって、咄嗟に声の主を目で追った。

どうやら大声を発したのは、推定三十代〜四十代の男性。何やら両手に重たそうな大きい食材を抱えている。誰と揉めたのだ、と声の向き先に視線を移すと、相手は、見たところ六十オーバーの女性。いや、もしかすると七十代よりも上かもしれない。

レジ前の通路を塞ぐように買い物カートを押していたご婦人は、その男性の圧の強い言葉を黙って受け入れ、肩身の狭そうにバツが悪そうに、後退していった。それからその男性は、手に持っていた品物をご婦人のカートへ乱暴に放り込み、ご婦人と一緒にレジの列の最後尾に並び直していた。

ははあ、これは赤の他人同士の揉め事ではなく、恐らくきっと親子喧嘩だ。しかも、喧嘩というより、親に対する子の反抗に過ぎない。一方的なやり取り。反発しているだけなのだろう。

しかし、その様子を、微笑ましさとか、あるいはその逆の不愉快な気持ちを抱いて眺めるだけで片付けることは、私にはできなかった。

息子であろう男性の態度は、たしかに褒められたものではない。声を荒げて、親に対して「お前」などという鋭利な言葉を使うなどとは。

ただ、その男性が感情的になった目的は恐らく、ただ一点「他人の迷惑になりたくない(または、身内を他人の迷惑にさせたくない)」ということに尽きるのだろう。完全な憶測ではあるけれど。

この世には、「人様の迷惑になる」これを極端に嫌う人間が居る。

何を隠そう、私もその一人だ。
だから、なんとなく分かる。

幼い頃から私は、親から「他人に迷惑をかけるな」と言われ続けて育てられた。小さい時からそのような英才教育を受けて育つと、結果、ほんの些細なことであっても何か誰かが困るような失敗をしてしまった時など、恐ろしいほどの不安感と自己嫌悪を抱くような人間が出来上がるのだ。そう、私のことだ。

私は、そんな考えの自分のことが、窮屈で苦しくて、本当に嫌だった。

その考えが、180度とはいかないまでも、125度くらい変わったのは、妻と出会ってからだった。

彼女は、「他人に迷惑をかけることは悪いことじゃない」そう親から言われて育てられたという。「生きていること自体が他人に迷惑をかけることなんだから、それは当たり前のこと。迷惑かどうかなんて気にする必要はない」とすら言う。

私の親が、神経質で几帳面で過保護で過干渉ですぐに口が出るタイプだとすれば、妻のご両親は、おおらかで放任主義で見守るタイプの人だった。一見大雑把に見える(失礼しました)が、実際はとても優しく愛情に溢れている。私は自分の親から受けた愛情が足りなかったとは言わないが、きっと愛情そのものの形が違うというだけなのだ。

そのような家庭環境で育った妻は、私と正反対で、穏やかで心優しく、純粋な人だ。

ここまで書いて一体何が言いたいかというと、妻やそのご両親がどれだけ人格者で出来た人間かということかは当然として、「自分の子供の育て方を間違えたくはない」ということだ。

何をもってして間違いか、もちろん明確なものは無い。しかし、出来ることなら、子供への接し方としては、私ではなく妻が生まれ育ったような家庭環境でそれをすべきなのだ。

私の育てられ方、生きてきた道、それらが全て間違いだったと言うつもりはない。けれども、少なくとも自分の子供が、まるで私のような、極端に「神経質で、几帳面で、過干渉で、過保護」な人間に育ってほしいとは思えない。私自身がそういった性質のおかげで、どれだけ暗く惨めな経験をしてきたか。それを子供たちに背負わせたくはないのだ。

そして、私が今最も、何を恐れているかと言うと、自分の子供たちに対して、私は「自分が親から言われてきた言葉、親から刷り込まれてきた思考」で接している可能性があることだ。

つまり、親から受けた過保護、過干渉、そして「他人に迷惑をかけてはいけない」という考えを、今度は私が、自分の子供に対しても押し付けているかもしれない。それは、結果的にまるで私のコピーを作ろうとしていることを意味する。その証拠に、我が家の子供たち二人は、段々と行動パターンが私に似てきているように見える。

これではいけない。私ではなく、妻のほうのマインドを、何とかして子に伝えたい。そのためには、私から変わらないといけないのだ。つい口を出してしまいたくなったら、我慢して見守る。穏やかに、おおらかにならないといけない。

流れを変えなければならない。繰り返さずに、自分の代で負の連鎖を断ち切る。そうやって自分を変えていかない限り、私は、いつか「育て方を間違えた」などと愛してやまないはずの子供たちに言ってしまいそうで怖いのだ。かつて自分が親から言われて、一生消えない傷を心に残したような、そんな言葉を。

子供は、親の言いなりにさせていい(言いなりにならなきゃいけない)存在ではない。自分とは異なる、一人の人間なのだ

だから、説教なんて垂れる資格など無いが、冒頭に書いた親子喧嘩を見ていたら、なんだか私には他人事に思えなかった。胸がソワソワして、心に波風が立ったような気分になった。

親の心子知らずとはよく言ったもので、その逆の、子の心親知らずでもあるのだ。人間なんだから当たり前だ。その両者の間にあるべきは、恐怖や束縛、支配ではない。尊重だ。相手を、一人の人間として思いやる気持ちだ。

つい長々と書いてしまった。しかもまあ、なかなかの暗い内容で。すみません。

要するに、私は、優しくなりたい。