あさぶろ日記

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思い出ツールと関西ライフの話。

自分は、普段、あまり積極的には過去を振り返りたいとは思わないタイプだ。でも、折に触れて「懐かしいなぁ」という思いは大事にしたいと思っている。

「懐かしいなぁ」と思うということは、当時あった出来事が、面影やらを残したまま何らかの形で保存されて、「思い出」として自分の頭の中にある、という状態だと考えている。その出来事があった当時、何かしらによって強く記憶と結びついて、それよりも時間が経ってからふと、そういう記憶が思い起こされる。

私は結構、音楽を聴くのが好きなのだけれど、その当時印象的だった出来事と、その当時聴いていた曲がリンクして、「思い出」となっていることが多いように思う。「この歌を聴くと、昔の『こんなことあったな』ってことを思い出す」みたいなものだ。

いや、自分としては、もしかしたら意図的に、出来事と曲をリンクさせている部分があるかもしれない。だから、特に印象的な出来事と結びついた曲は、記憶の中で大事にして、普段はあまりリピートしたりしないようにしている。繰り返して曲を聴いてしまうことで、その当時印象的だった出来事は、いつしか日常で上書きされてしまうことを恐れてしまう。つまり、音楽を、「思い出」を呼び出すためのツールとして機能させていたい部分があるのだ。

たとえば、YUKI「プリズム」は、誰も心開ける友達が周りに居なかった高校時代にいつも歌詞を読んで心の支えにさせてもらっていた曲だし、B'z「愛のバクダン」は、涼しい顔をしていた同級生がしれっと有名大学に合格してどうにも劣等感が拭えなかったときにこれを聴いて受験勉強を頑張るモチベーションにしていた曲だし、Mr.Children「ランニングハイ」は、初めて一人暮らしをする私のために今は亡き親父が遠くまでクルマを出してくれて夜帰るときに「がんばれよ」とひとこと言ってくれた後で部屋に自分一人で心細くなりながら聴いた曲だし・・と、挙げだしたらキリが無いのでこの辺にしておくが、とにかくたくさんの思い出があって、それらは一つ一つの出来事とそれぞれの曲とが結び付いている。(敬称略で失礼いたします)

それらの曲は可能な限り、iTunes のプレイリストで時代ごとにしてまとめている。無性に懐かしい気分に浸りたくなる時などは、プレイリストを聴き漁ったりするのだ。

ちなみに、上でざっと挙げたものは、高校から大学入学するまでの間の曲たちのごく一部だが、実は今現在も、ことあるごとに勝手に自分の人生の中の時代をぶった切ってカテゴリ分けしたりしている。それはプレイリストという形だけではなく、特定のアーティストのアルバムをひたすらリピートするというケースもある。たとえば、ブラック気味なベンチャー企業で働いていたときは通勤退勤の途中、常に、星野源の「YELLOW DANCER」というアルバムを聴いていたし、担当したプロジェクトが死ぬほど辛くて仕方なかった毎日には、BUMP OF CHICKENの「RAY」というアルバムをずっと繰り返していた。(こちらも敬称略)

好きなアーティストは幾つか居るけれど、なるべく広く浅く聴くようにしている。当時、たとえ辛く苦しい状況だったとしても、今になって思い返せば、なぜかその時の感情だけがスッポリ抜け落ちて、単に一つの「思い出」として記憶の中に仕舞われている。

前置きが長くなったけれど、そうやって自分は記憶の中に保存された「思い出」を、よく「音楽」に結び付けて出し入れしている。

だが最近、不意に、別の媒体で「あっ、懐かし」と思うことがあった。それは、漫画だ。具体的に言うと「やまとは恋のまほろ」という作品だ。

現在、幾つかの話は、文春オンラインの電子マンガで無料で読むことができる。(いつ配信終わるか分かりませんが)

やまとは恋のまほろば | 文春オンライン マンガ賞多数入賞の人気作「やまとは恋のまほろば」が帰ってきた! 長らく休載していた「やまとは恋のまほろば」が、「 bunshun.jp 詳しく書くとネタバレになると思うのでやめておくが、この作品は、舞台が大阪にある大学で、サークル内の交友関係の諸々がエピソードとして取り上げられている。しかし何とも、ゆるくて良い。それでいて、大学っぽい人間関係として妙にリアルな感じがある。

私がこれを読んで「懐かし・・」と思うのは、主人公たちが所属しているサークルのマイノリティさというところと、この作品の登場人物がほとんどみんな関西弁で話しているところ、に起因しているのかもしれない。

自分の状況と、この作品の時代背景や人間関係を比べると全く違うけれど、私が大学時代を過ごした町も関西地方だった。そして、当時自分が所属していたサークルも「何やってるか分からん」ようなものだった。

で、この作品を読んでいると、同じエピソードを体験したわけでもないのに、当時自分の周りで巻き起こっていた友人たちや先輩とのアレコレや、まさに自由な時間であった大学生活の日常そのものを思い出してしまう。「居た居た、こんな先輩」とか、「ああ、似たような経験あったなぁ。あの時、もしこうしていたら、自分はどうなっていただろう」とか。そんなことを、アラフォーのじじいのくせに、年甲斐もなく心地良いようなむず痒い気持ちになったりする。

それから、これはあまり共感してもらえる人が居ないかもしれないが、私のような関東出身者にとって、関西地方で過ごす大学生活というもの自体が、なんとなく「非日常感」があったような気がするのだ。同じ日本国内にある町のはずなのに、何故だか異国感というか異文化のような雰囲気がある。

その大きな理由としては、人々が話している言葉やそぶりといった、言動なのかもしれない。耳慣れない言葉やイントネーション、それが弾むような弾けるようなポンポン聞こえる時もあれば、ふんわりと柔らかにそして脆く包み込むように聞こえる時もあった。それを操る人によって、まったく違った雰囲気を感じた。けれどそのどれもが心地良かった。

言葉という点で言えば、自分にとっては何だか不思議の国で暮らしていたような四年間だった。卒業後はずっと東京で働いているし、当時の友人たちともほとんど会わなくなってしまったので、パッタリと不思議の国の扉は閉ざされ、まさにそれは「非日常」のまま、私の記憶の中に「思い出」として保存されてしまっている気がする。

そういったわけで、この作品を読むと、そういった当時の感情を思い出して、何だか懐かしく感じてしまうのだ。たった四年間であったけれど、関西の町で過ごした日々を思い出す。このような世の中になってしまって遠出も厳しくなってしまったが、落ち着いたらまた旅行にでも行きたいなと思う。でもそこにあるのは既にもう日常ではない、観光なのだ。今も昔も「非日常」であることに変わりはない。

もし関西地方ではなく、東京で大学生活を過ごしていたら・・という想像は、今となっては難しい。仕事場と学生時代を過ごした場所が同じ町にあるというのは、今の私にはもう想像できない。

けれど、あの当時この進学先を選択した自分の決定は、これはこれできっと正解だったのかもしれないなぁと思ったりする。