あさぶろ日記

note のほうに書いている記事を保管しているだけです。

陽の当たる道を歩むことの話。

自分の今まで歩んできた半生は、どちらかというと「傍流」のほうだなと思う。「傍流」つまりそれは「本流ではない、メインロードではない、脇道」ということ。

小学生の休み時間

たとえば、小学校の時に休み時間に何をして過ごしていたか。

本流であれば「外に出てドッジボールやサッカーをする」とかだったりするだろう。やんちゃな男の子は、何人かで集まってそうして遊ぶ。彼らは休み時間が終わると、汗をかいて実に爽やかな笑顔をしているはずだ。

それに対して、傍流は「机に突っ伏して寝たり、本を読む」とかなのだと思う。言い換えれば、多数派ではない、少数派ということだ。環境によっては、そういう「教室内で過ごす」人たちが多数派になることもある。そういう時には、もしかしたらその遊びが「本流」になるかもしれない。

ちなみに私は、小学校時代の休み時間はもっぱら「ノートに絵を描いて過ごす」が第一位であった。別に上手くはなかったが、暇さえあればずっと描いていた。そして第二位くらいに「校庭の隅っこにある変なオブジェとか階段付近で、自分がRPGゲームの主人公になったつもりで冒険した気になる」というものだった。

第二位にランクインしたイカれた遊びは別として、きっと第一位の遊びは、紛れもなく「傍流」に属するものだと思う。こと男子においては、そういう遊びをして過ごす生徒は、たしかほとんど居なかった。たまーに、学年に一人居るか居ないかという感じだった。

「じゃないほう」的な話

本流と傍流。主役と脇役。メジャーとマイナー。そういった区分はきっと何かしらあると思う。もちろん相対的な側面もあるかもしれない。そしてそういう括りがあるとして、私は、何かにつけて「傍流」の道を歩んできた気がする。影と日向で言えば、影のほうの道だ。

それは小学校の休み時間に限らない。主だったものを幾つか載せてみると。

中学の部活動では、野球やサッカー、バスケといったザ・青春のメジャースポーツではなく、当時は本当にマイナーであった卓球を選択。校舎や体育館から離れた掘建小屋だかプレハブ小屋が練習場だった。他の部活から見たら「何してるかよく分からん、暗い人たち」というイメージだったろうと思う。

その先の高校も、住んでいた県の進学校ではなく、同じ学校の同級生がほとんど居ない他県にある男子校に進学。男子校が悪いというわけではないが、よく聞く、異性の居ない解放感なんてものは微塵も感じなかった。ただただ退屈でつまらなかった。さらにアウェイ感も相まって何とも学校生活に馴染めないまま卒業した。

今現在も、何とか社会人としてやっているが、所属する部署は、直接売上に関わるようなフロントではなくバックオフィスで、言ってしまえばコストセンター的な立ち位置だ。多少なりとも肩身の狭い思いをすることは正直ある。

いずれも主役ではなく、脇役ということだ。

しかし、これらは自分でそれなりに考え、選んできた道ではある。

そして、断っておくと、後々思い返してみればそれぞれの良さはあったと思うし、何よりその環境に身を置くこと自体が何かランクや程度が低いということを意味するわけではない。休み時間に外で遊ばなくとも、教室で本を読んだり絵を描いて過ごすことが至上の喜びと感じる人も居るはずだ。卓球だって部活動をやっていた当時は本当に面白かったし、そのスポーツ自体は今ではファンも観客も多数居るようなメジャーなものだと言っていい。知り合いが居ないアウェイな状況であっても、むしろ新たな人間関係を構築するには良いチャンスとも言える。仮にコストセンターの部署だったとしても会社内の統制や中枢を担う、大事な組織であることは確かだ。

そのため、私は、私自身がそのような選択肢を選んで過ごしてきたことについて後悔は無いし、そういう道に敢えて(いや仕方なくでも)進んできた人たちを見下すつもりも全くない。メジャーかマイナーか、という区分けがそこにあるだけだと思っている。何かと比べたら本流ではない、というだけ。お笑いコンビの「じゃないほう」に似ている感覚かもしれない。いや、ちょっと違うかもしれないが。

私の人生は私だけのものではない

さて、それで何が言いたいかというと、私自身はそれで良かった。結果的には、それなりに満足した人生を歩んできていると思うからだ。今まで、ところどころで悔しい思いや辛い目にも遭ったことはあるが、それでも今のところ、この現在に繋がる選択肢を選んできたのだと思えば、腑に落ちる。自分で自分を納得させることができる。

だが、今の自分は、自分の人生だけを考えて生きていられるわけではない。それは子供が居るからだ。

自分の子供についても、少なくとも自立するまでは、彼らが生きやすいようにサポートしてあげなくてはならない。言わば、子どもが育つまでは、自分だけの人生ではない。そして、そこに親心というか物欲心が出てきて、「できることなら、親(自分)よりも、もっと幸せな人生を」と願ってしまうのだ。

「キャラ」と生きやすさについて

では「幸せとは何か」ということもあるが、それを考えるにあたっては、人生の最初のステップとして、学生時代のキャラ、というものがあると私は思う。

保育園や幼稚園でも、それぞれでそれなりに園児間のコミュニティは形成するだろう。しかし、小学校に上がれば、それこそ自我というかアイデンティティが強く育って、目立っていく。この、クラスの中の、学年の中の、そして学校内での「キャラ付け」によって、その後の学校生活の過ごし方、つまり子供にとっては生き方自体が、だいぶ左右されると思うのだ。それが「幸せ」に直結するかは別として、生きやすさという面で大きく影響を与えるものと考えている。

小学生の息子も御多分に洩れず、彼自身の我が、日に日にどんどん強くなってきていると感じる。もちろん、家ではどんな子なのか大体分かっているつもりだが、学校内ではどのように立ち回っているか、よくは知らない。彼が一体どんなキャラで居るのか。クラスメートや友達に対して、どのような接し方をしているのか。彼らからどのように接せられているのか。

息子のキャラと、私のキャラ

ふと彼に、休み時間に何をしているのか訊いてみた。すると、「クラスの子と数人でドッヂボールをして遊んでいる」とのこと。おお、それは何と「メジャー」な過ごし方をしているのだな、と自分の子供ながら驚いてしまった。

私はドッヂボールをして休み時間を過ごすなんてことは経験が無く、言ってしまえばむしろ、ドッヂボール自体が、実は嫌いな部類に入る遊びだった。だって当たると痛いし、すげぇ勢いで投げつけてくるやつ怖いし・・。しかし息子はそうは思わないようで、「今日は●●にボールを当てた!でもその後すぐに当てられた!楽しかった」と言っていた。すごい。ドッヂボールなんて怖いものを、それもクラスメートと一緒に賑やかに出来るなんて、尊敬さえ覚える。

たかだかドッヂボールをするかどうかで、その先の人生が変わるとは本気で思っていないが、それでも、実は小学校当時の自分は、「休み時間に教室で絵を描いて過ごしていたこと」に多少の引け目を感じていた。最初はクラスメートが外遊びに誘ってくれても「いや、俺はいいや・・」と断っているうちに、次第に誘われもしなくなった。気付くと、教室内には、男子生徒は私以外居なかった時もあった。そのことはとても疎外感を味わうことになった。最初は楽しくて描いていた絵も、いつしか孤独感を紛らわせるための手段として機能するようになっていたことに気付いて、自己嫌悪に苛まれたこともあった。

他にも、息子は給食の時間に、好きなオカズがあれば率先しておかわりをするらしい。小学生当時の私は、あまりに好き嫌いが多くて、給食の時間が大嫌いだった。今だったら問題行為なのかもしれないが、昔は、給食を食べ終わるまで席を立ってはならず、掃除の時間になっても机で一人で食事を続けなければならなかった。私は、クラスで掃除が始まっても、教室の隅っこのほうでずっと居残りで食べていたことを覚えている。そのような苦い経験がある。

だから、彼のそういう食いしん坊なところも本当にすごいなと感心する。彼も家では好き嫌いもあるくせに、学校の給食は「うまいうまい」と言ってどれも残さずペロッと平らげ、挙句おかわりまでするなんて本当に素晴らしい。

外遊びする活発なキャラと、教室内で過ごす大人しいキャラ。食いしん坊キャラと、給食を残して掃除の時間になっても居残りして食べさせられているキャラ。

私の当時のキャラは、そっくりそのままコンプレックスに直結していた。しかし、息子は違う。自分がコンプレックスに思っていたことを、息子はことごとく打ち破り、軽々とこなしているように見えるのだ。

今が良いから良いけれど・・

実は、私が上で「今までの選択肢に後悔は無い」と書いたのも、それは結果的に、今がそれなりに幸せだからだ。もし今それほど幸せではなかったとしたら、もしかしたらきっと私は「あの時の自分が選んだ選択肢のせいだ」と考えていたかもしれない。

そしてそのように八つ当たりにされる選択肢たちは、往々にして「本流」ではなく「傍流」に属するものである傾向がある。「ああ、もっと友達をたくさん作ってスポーツしていれば」とか「ああ、あの時あんな男子校なんて選ばなければ」とか「ああ、総合職で入社して営業をやっていれば」とか、そういった具合だ。

だから、子供にはできれば「本流」を選んでほしい。いや、もっと言ってしまえば、それすらも感じないで進んでほしい。

そもそも、「本流」か「傍流」かなどというのは、実際は「本流」に居る人にとっては関知しないことなのだ。そういう区分けを感じるのは、私のように、もっぱらどこかで自分のことを「傍流」だと感じている側なのだ。

子供には、自分がメジャーな立場ではないのだというような、そういうコンプレックスを抱いてほしくない。のびのびと、真っ直ぐ、真ん中の道を歩いてほしい。そう願ってしまうのだ。

タイトルのこと

どこかで聞いたフレーズが、頭のどこかに潜んでいた。実は今回の記事は、まずそれをタイトルにして、本文を肉付けしていった。それは、ちょっと調べてみたら、某テレビドラマの一シーンだったようで、こんな言葉だった。

「陽の当たる道を歩く。そうすれば人生は輝く」

ちょっと言い回しは違うかもしれない。どうやら洋楽の曲のフレーズでもあるようだけれど、私はその曲も聴いていないし、その曲が使用されたドラマも、きちんと観たことはない。

けれども、それは真実なように思う。陰で、鬱屈な気持ちで、暗い場所を歩いていても、人生は好転していかない。だから、明るい場所を、王道を、堂々と歩いた方が良い。解釈は違うのかもしれないが、私はそう考えている。

もっと言ってしまうと、もしかしたらそれは、上で挙げたような「メジャーか、マイナーか」とか「本流か、傍流か」なんていう、言ってしまえばくだらない区分けを超えたところにある、自分の人生に対する向き合い方、なのかもしれない。

明るさや暗さよりも大切なこと

息子は、外見は非常に私に似ているらしいが、きっと中身は全く私と異なる、素晴らしい特性を数多く持ち合わせていると思う。彼の良さを活かすことのできる環境に身を置けるよう、親として出来る限りのことはしたいと考えている。明るい道を歩けるように。そして、そのために私の価値観を、どうにか彼に押し付けないようにしたいのだが・・ついつい口を出してしまう。よくない。

そしてもし、私がかつて中高生の時代にずっと心に抱いていたような、「明るくない」道を選んで進んできたことに対しての疎外感やコンプレックスを、いつか彼自身も感じる出来事に遭遇したとしても、そこは経験者として温かく見守り、傍に居てあげたい。「大丈夫、勝負はまだ終わってない。まだこれから幸せに巡り合うチャンスはある」と。

余談

ちなみに、ここ最近は毎日、晩ごはん後に、息子と一緒に自宅の庭で運動をしている。

その中で、サッカー(実際はボールの蹴り合い)もするのだが、日に日にキック力が増している。サッカーなんて、私は今までやったことないのに。けれど私も一生懸命にボールを追いかけ、蹴る。息子は楽しそうに蹴り返してくる。運動後は、彼はいつも「いやー、サッカー、マジ楽しいね!」と言っている。たしかに私も、気持ちが良く感じる。ああ、そうか、楽しいからやるんだ。そこに、本流か傍流か、なんて線引きはやっぱり無いのだ。

時には、一緒にドッヂボールもやるが、ボール投げる力も強く、投げてくる精度も上がってきている。内心「ドッヂボール、怖いからパパ嫌いなんだよ、子供の時は逃げ回っていたし」なんてことを思っているが、言えない。「さあ、もっと強く投げていいぞ!」と言うしかない。そうすると、本当にさらに強くなる。負けそうだ。でも息子は楽しそうだから、それでいい。頼もしい。