あさぶろ日記

note のほうに書いている記事を保管しているだけです。

アイデンティティとペルソナの話。

つい、仕事とか子育てとか、そういう自分の生活のほとんどを占めているトピックばかり取り上げて、記事を書いてしまう。

それは別に何も悪いことではないと思うのだけれど、なんだか少し味気ない感じがしていた。これらはたしかに、現在の私の人生のほとんど全部と言っていいものたちなので、紛れもなく「自分」なのだろう。

「仕事は別に大好きというわけではないです。でも嫌いじゃない仕事をさせてもらっている。やりがいもそれなりにある。なんとかお給料も継続して貰えるようになっていて生活もできている。妻と子供たちも可愛くて、家族のためなら何だって頑張れる気がする。とは言うものの、自分一人頑張りすぎて潰れることはしたくない。私も家族を支えていきたいが、家族からも支えられている実感もある。今は、子供が日々成長していくのが楽しみだ。ローンも返さなくちゃいけないし、何より健康で過ごして無理なく仕事を続けて、家族の幸せを守っていきたい」

そのような思いは、本当だ。良いパパや良い旦那を演じているというつもりはない。嘘はついておらず、紛れもない本心から考え、行動して、生きている。

でもなんとなく、そんなある種「ちゃんとした」ふうな自分が全てではないようにも思う。何のための自分なのだろう、という思い。

もちろんそれらは自分の今の生活の、思考の、ほぼ100%を占めているのは確かだ。だけど、それ以外の、ほんの0.001%くらいの割合で、多分明らかに全然「ちゃんとしてない」自分は居る。

なお、「ちゃんとしている」というのが、社会に対して他人に対してそれに合うように自分を形成しているものだとすれば、「ちゃんとしてない」というのは、別に怠惰であるとか立派ではないとかそういうことではなくて、単に自分の内側に意識が向いている、そんな状態のことだと考えている。

ある種のペルソナというか、そういう「外の世界に向いた自分」とは全く別にある、何か、心細くて、頼りなくて、弱々しくて、でもどこか柔らかい光を纏ったような存在が、たしかに心のどこかにある。外的な側面じゃなくて、なんというか自分の内なる声というか、そういう自分のことだ。

それは、今の生活ではとても向き合う機会も少なくなってしまったけれど、決して蔑ろにしたくないものたちのことだ。自分の元型というか原型というか、もしかしたらそんなに大層なものだったりコアというほどのものではないかもしれないけど、それらのおかげで今の自分も形成できているのだと思っている。

もしかしたら、こうして note を書く際に内省する時間は、ほんの少しでもそんな「ちゃんとしてない」愛すべき自分と向き合っていたりするのかもしれない。ここでは、仕事や家族以外のことも、書くことができる。書いていい。

コンプレックスに感じていた、敗れた夢も。自身の核と捉えていた学問も。埃を被って棚の奥底で眠っている香水のことも。ドロドロした黒く、劣った感情も。だらしなくて、くだらない妄言も。外の世界に向いていない、あくまで内側にしかエネルギーが向いていない、他人から見れば「くだらない、共感できない、思い過ごしだよ、もうやめた方がいいよ、もっと他にやるべきことあるでしょ」そんなものたち。学生時代とか、一人で生活していた時にはしょっちゅう自分の頭をもたげて、悶々とそして鬱屈とさせてくれていたような、そんなものたち。

それら全部、今までの自分を形作ってくれている、大切な一側面、一要素だと思っている。昔は嫌いなものもあったけれど、でもどこか愛しい。これらにフタをして生きていくことは、ちょっと今の自分には難しい。

全て、自分。良い悪いは無い。全てひっくるめて生きていくのでいいんじゃないかな、と思っている。少なくとも今は。

こんな駄文を書くのも、ここでは少し、許してほしい。