あさぶろ日記

note のほうに書いている記事を保管しているだけです。

父と子の関係についての話。

自分勝手なのは分かっている。だけれど、やめられない。やめようと思っているのに、ついやってしまう。本当に良くない。

それは「子供に対してつい怒ってしまう」こと。
特に、小学一年の息子に対してだ。

自分としては理不尽な内容で叱っているつもりはないが、その程度や言い方に関しては、後になって「やりすぎたな」と感じる。さすがにボコボコに殴ったりしないものの、つい声を荒げることはしてしまう。感情的な怒りではないと思っているが、注意の仕方には、感情が入ってしまっていると感じる。

「父は忘れる」を忘れていた

以前に、こんな記事を書いた。

子に対してヒステリックになってしまう人は何度も読んだ方がいい文章の話。|あさぶろ|note 自戒です。 今読んでいる本で引用されている文章。すごく有名な本ですが。 忘れないように、記します。 父は忘れる ーリ note.com この記事を、この「父は忘れる」を、読み返すたびに「またお前は忘れたのか、愚か者め」と言われているように感じる。

また私は忘れてしまっていた。また私はこの「叱ってばかりいる習慣」に陥っていた。怒った後、息子がバツが悪そうにしているのを見ると胸が痛くなる。この文章を読み返すと、同じように、私も彼をまるで大人のように扱ってしまっていたのだと思い、胸の辺りに、胃の辺りに、何とも言えぬ不快感を覚える。なんて馬鹿なんだ自分は。

怒りのコントロール

「よし、明日から怒らない父親になるぞ」などということは言えない。自信が無い。「ダメでもまたやれば良いや〜」と軽く考えたくない。

だけど、グッと我慢しなければならない。
叱る前に、

・本当に怒るほどの内容か?
・怒るに値する内容であれば、怒り方は適正か?
・自分の感情による怒りに任せていないか?
・怒った後、相手の逃げ道は用意されているか?
・もう二度と相手がそのようなことをしない策は講じているか?

ということを考えないといけない。頭では分かっている。心のほうが、体のほうが、ほぼ反射的に「何やってんだ!」と言ってしまう。だから抑えないと。我慢して、訓練する。

どこかで読んだが、人は怒る前に6秒間数えると、怒りが収まる、と聞いた。そしてポイントは、その際に「怒りを我慢する6秒間は思考を停止させて自分と向き合うことに集中」することらしい。

やってみるしかない。何度失敗しても、やるしかない。子供と良い関係を築きたいから。

私の父のこと

その原点にある話。
自分の父親のことを思い出す。

父は、私が大学生の時に病気で他界した。

私の印象だと、生前、元気な頃の父は、仕事が忙しく平日は子供が起きている間に家に居ることはほとんど無かった。朝早く家を出て、夜遅くに帰ってくる。朝起きると、父が残業で貰ったというパンがリビングのテーブルに置かれていて、それを弟と一緒に「今日のは美味しいね」なんて言いながら食べたのを憶えている。

平日は会うことはあまりなかったが、休日や、まとまった休みがある時には、家に居た。というか、休みは家族で旅行に行くことも多かった。プールやキャンプやスキーや、色々な場所へも連れて行ってくれた。今同じような立場になって分かるのは、彼は家族サービスを存分にしてくれていたのだ。

良いお父さんだったと思う。好きだった。
だが、同じくらい、怒っている印象も強かった。

私が何かしでかすと、すぐに手が出る。そんな印象があった。虐待ではない。分かっている。なぜなら非は私の方にあるのを理解していたからだ。しかし、私自身はそれを受け入れられず、反発して、そのたびに父と衝突した。だから、最期は、お互い関係が良いとは言えなかったと思う。

この構図は、今の私と息子の関係と、非常に似ている。だからこそ危機感を持っている。このままだと、私と彼の関係は悪くなってしまう。

歩み寄っていたい

「パパ最近怒りすぎだよ」とか「パパ最近優しいね」とか、そう息子に言われることがある。

これは彼からのメッセージだ。向こうから歩み寄ってくれている。ありがとう。私の未熟な部分を、彼が教えてくれている。言ってくれるだけありがたい。言わなくなると、お互いの溝は深まり、それこそ関係は、修復できないくらいに崩れていく可能性がある。経験上それを知っている。だからこちらも歩み寄らないといけない。

決して、かつての父を否定しているわけではない。けれど、やはりあれは「怒りすぎ」だったと思う。怒りの内容は正しいが、その形式は正直、程度が大きすぎた。

それはまったく、今の私と同じように。

分かっている。今なら分かる。父は私に期待していた。似ていた。だからあんなに私を強く叱り、ぶつかった。それを、私はきちんと受け取ろうとしなかった。

私も、息子に期待している。そしてとても自分と似ていると思うのだ。憎いわけではない、愛ゆえに求める基準が高くなってしまって強く叱ってしまう。でも、だからと言って、そんなに怒っていい理由などは無いのだ。幸い、まだ彼は受け取ってくれている。こちらに発信してくれている。笑ってくれている。

正さねば、襟を。
私と息子の関係を、晩年の父と私のような壊れかけたものにしたくなければ。

死ぬ間際になってしか本音を漏らすことができないなど、したくはない。病床で意識の無い状態の父に、泣きながら私が詫び、伝えようとした言葉は、もしかしたら彼に届かなかったかもしれない。届いたかもしれないが、それを確かめる術はもう無いのだ。虚しい思いと後悔ばかりが残る。もう少し、良い息子で居たかった。最期に彼に、父親としての誇りを持たせてあげたかった。

私は、息子と、酒を一緒に飲んだり、真面目な話も馬鹿話もしたりしたい。仕事の話とかを聞いてあげたいし、ちょっと偉そうに先輩ヅラしてアドバイスしてあげたりしたい。私が、父にしてもらいたかったことだ。

からしつこいくらいに、ウザがられるくらいに、ずっと好きを伝え続けたい。私が死ぬ直前まで、仲良しな親子で居たい。死んでから「良い親父だった」と言われるのでは遅いのだ。生きているうちに、そうする。

向き合うんだ、ちゃんと息子と、そして自分と。