あさぶろ日記

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便利な社会や未来都市は、きっとそれだけでは完璧な世界とは限らないという話。

たとえば、事業会社のコスト部門に在籍していたりすると、やれ経費削減だの、やれ業務効率化だの、何だのと言われることがある。まさに、今の私の立場なのだけれども。

それはたしかにそうなのだろうけれど、もし全ての作業を効率化したとして。人間が行う単純作業は全て自動化したとして。会社内でも、対取引先でも、対お客さんでも、たとえば、たった1個のボタンをポチーっと押せば、あら不思議、やってほしいこと全てをあっという間に、人間ではない何かがやってくれたとしたら。

それはそれは便利だろう。
だけれど、便利なだけな気もする。

効率化の先にある世界とは?

これは決して効率化がダメとか、そういったことを言っているわけではなくて。何でもかんでも便利に、効率的に、自動的に、仕組み化された世界って、多分、すごく過ごしやすいけれど、何だか、自分が生き物であることを忘れてしまいそうだ。生き物だし、人間だし。

頭で考えて、感情を持っていて。言葉だったり、態度だったり、テクノロジーだったりで、それを表す手段を色々持っていて。時に傷つけあったり、時に助け合ったり愛し合ったり。誰かの一言で泣いたり、笑ったり。孤独に押しつぶされそうになってしまったり。誰かの支えでまた立ち上がることが出来たり。

何だかそういった「人間らしさ」は、極力削ぎ落された生活になっていって、誰と会話するでもなく、誰とも揉めず、誰とも触れ合うこともせず、全て自分の思い通りに事が進んでいく。それは自分自身も、ともすると、自動化された世界、仕組み化された社会の中に組み込まれた、まるで1つの部品のように。

iPhone の修理カウンターで接客してもらった時の話

全然違う話に聞こえるかもしれないけれど、1つ。

以前、新しく購入した iPhone が調子悪くなってしまって、Apple製品修理カウンターだかに持ち込んだ時のこと。

サイトで修理受付の予約をしている間とか、お店に向かっている間には、「何だよ、買ったばっかなのにさぁ」という怒りの混じった不満を持っていた。お店に到着し、順番が呼ばれるまで待機。ふと、隣の接客ブースを見ると、言葉はすごく悪いが、モタモタした感じで対応しているスタッフが居た。関係ないのに、見ているこっちまでイラついてしまいそうになった。
そして、いざ順番が回ってきて、私も接客してもらうことになった。隣のブースとは別のスタッフの人だった。

直前まで「買ったばかりでこれは無いんじゃないですか!できるなら交換してもらいたいくらいですよ!」と、私はクレームまがいの言葉を吐こうとしていた。だが、こちらがそんな素振りを見せる隙も無いくらい、その応対してくれたスタッフの方が、まぁ淡々としていて、手際が良くて、無駄がなかった。それでいて、機械的というか無機質的というわけでもなく、こちらの意図や思いをくんでくれた。

「大変ご不便をお掛けしました。お話を伺うと機器の初期不良です。交換対応させていただくので宜しいでしょうか。ただいま、在庫を確認してまいります」と彼は言うと、私は「えぇ、まぁ、そうですね・・お願いします」と、何だか気恥ずかしいような気分になった。

彼は、バックヤードに戻ったかと思うと数分も経たないうちに戻ってきて、「在庫、ございました。色と容量は同じものでよろしいでしょうか。本日すぐにお渡しできます」と言い、交換の手続きも素早く終えてくれた。
接客してから30分も経たないうちに、私の iPhone は新品のものに交換されて、手元に戻ってきた。

何この優秀な人。私が女性だったら絶対惚れていた。
ふと、隣のブースを見ると、モタついていた別のスタッフの人は、まだ同じお客さんを接客中だった。そのお客さんも、どこか苛立っているように見えた。

何が言いたいかというと「デキるスタッフに当たってよかったね」というのはそれはそうなんだけど、多分、Apple の修理カウンターは非常に業務というかオペレーションが効率化されていて、お客さんのリクエストを無駄なく処理することができる仕組みは構築されているのだと思う。だけれど、そこに人間が介在する以上、上手くそのオペレーションが進む場合もあるし、そうでない場合もある。人間対人間だから、それぞれの相性や、スキルレベルもある。その時々のコンディションだって異なる。

だからといって、スタッフではなく、完全に機械が全てのオペレーションを肩代わりしてくれたとしたら、果たしてお客側の人間は「あ~満足。イライラしないし素晴らしいわ~」となるかと言ったら、私は、そうはならないのではないかと思う。

たとえば、そういう機器の修理受付とかのケースでは、店頭に持ち込む以外にも、まずは、メーカーの公式サイトにあるFAQで事象を確認したり、ヘルプデスクに電話したり、そういったアクションを事前にとったりすることも多いと思う。

では、そうやってサイト内の情報を見て、その提供された情報が、ドンピシャで自分の抱えている問題を解決してくれるだろうか。私はほとんど、そのような上手くいった経験は無い。断っておくと、私は「機械に疎い老人」ではない。自分で言うのもなんだが、仕事の関係で、多少はツールやソフトウェア、デバイスを触っている側の人間だ。それでも、自分の持ちうる知識をもってしても、簡単には解決しないことが多い。

あるいは、ヘルプデスクに電話して、返ってきた情報で、問題が解決することはあるだろうか。やはりこれも、個人的にはほぼ無い。そもそも、電話すると、今はダイヤルによって窓口が分かれていることが多い。しかし、果たして自分の抱えている問題が、何番のボタンを押せば、正解の窓口にたどり着くのかすらも分からないこともある。結局、「その他」のボタンを押して「オペレーターにお繋ぎします」となることばしばしばだ。

機械的に誘導されても、結局は人に聞かないと、問題は解決しない。とみんな思ってしまう。本来は、どこかに解決の手段は公開されていたとしても、誰もその情報にたどり着くことができない。
だから、有人の電話窓口は常に「混み合っていますのでしばらく経ってからおかけ直しください」という状況になる。

つまるところ、幾ら効率化して、機械化して、自動化して、仕組み化しても、それで全てが解決するわけではないと思う。もちろん、あらゆる工夫だったりテクノロジーの進化でますます便利な社会になっていくのは確実だ。今後、FAQはもっと詳細化かつ簡易化して、あらゆる問題を解決する情報を提供してくれるようになるかもしれない。ヘルプデスクも、有人窓口に繋ぐことなく、一発で、探しているケースに辿り着くような画期的な仕組みが出来上がるかもしれない。そういった無駄を省くエネルギーや取り組み自体は、非常に重要なことだと理解している。

しかしそれは、あらゆる問題に対しての、完璧な解決方法ではないと私は思う。全ての問題を解決する魔法の杖は、たぶん無い。

そして結局、人は困っていると、人に訊いてしまうのだ(全員が全員そうではないだろうが、そういう人はきっと多いと思う)。

一見無駄がなくて完璧に見えた開示された情報では、自分の悩みを晴らすことができないと知った人は、まるで目の粗いザルから零れ落ちてしまった砂を拾ってくれる人を探すように、誰かにその答えを求める。機械ではない、人間にだ。そして、よく考えると当たり前ではあるけれど、残念ながら、その訊いた相手の人が、全ての答えを保持しているとは限らない。

Apple の修理カウンターで接客してくれたスタッフに当たったことはラッキーだった。でも、じゃあ、仮に応対してくれるスタッフの指名制度があったとして、次回また困ったことが発生したとしたら、私はどうするだろうか。「誰でもいいから応対して」と思ってスタッフを指名せずに対応をお願いするだろうか。いや、恐らくきっと、また次も、その優秀なスタッフに頼むだろう。なぜなら、前回のその一度の接客で、私は彼を信頼したからだ。もし次に発生した問題が彼の手に負えないものであったとしても、彼なら私のために最大限の努力をしてくれると信じている。それで結果的に解決しなかったとしても「いえいえ、色々と頑張ってくださりありがとうございました」と諦めがつくだろう。

そしてこのことは、修理カウンターに限った話ではない。

家を買った時の話

もう一つ例を出すと、私が自宅を購入した時の話。

子供が大きくなってきてそろそろ小学校に上がるということもあり、数年前、私は家を買った。

だが、実は、最初は買う予定はなかった。「どこか良い場所があれば」という条件で探していた。緊急度はそこまで高くない。現在の住まいでも特段不便な点は無かったからだ。ただ、将来的には欲しかったので、真剣には探していた。

だから、情報収集のために不動産屋さんへ行ったり、ネットで資料を請求することはあったが、そのたびに営業をされても、しつこいセールストークで心は揺らがなかった。時に強引なやり口だったり、脅しに近い文句でセールスマンが口説いてこようとして来ても、断固として首を縦には振らなかった。何せ、子供の将来のこともあるし、安い買い物ではない。上手く言いくるめられてこんな高額な商品を買うなんて馬鹿馬鹿しいと思っていた。「それはあなたが売りたい物件でしょ。それに対して、本当に欲しいものでなければ、こっちは買う意思が無い」という思いをずっと持っていた。

そんな時、とある物件が気になって内見の申し込みをした。すると、その営業マンは、他のどの人もやっていたような強引なトークを私に対しておこなわず、「ご興味があれば聞いてください。何でも答えます」という待ちの姿勢をしていた。だから、私からズケズケと色んな質問をしたり、無茶を承知で「他にこういう条件でこんな場所で物件を探しているが、無いだろうか」というお願いしてみたら、「あ、それならこちらはどうです?」という感じで勧めてくれたところがあった。私はその場所を見て、気に入り、すぐに購入することを決めた。

もちろん即決したというわけではない。検討にあたり、その営業マンに疑問に思っている箇所を全て訊き、そのうえで一度、自宅に持ち帰って、家族とも相談して熟慮した結果、買うことにした。そのなかで、営業マンからは何の催促も無かったし、何なら不利な条件も、細かい参考情報も、物件に関するあらゆることを、こちらが求める形で提供してもらえた。本当のところは分からないが、少なくとも私が感じた限りでは、彼は情報の出し惜しみをしていないように見えた。だから、安心して購入を決めることができた。

そのことで思ったのは、「何を買うか」ということは最も大事だが、「誰から買うか」ということも同じくらい大事なのだということだ。もちろん日用品などをスーパーで求める際にいちいち「この店員さんから買うんだ」とは思ってはいないだろうが、ある程度高額だったり愛着があったり、特に自分の時間を費やす物やサービスの購買に関わるものであれば当てはまると思う。

だからもしこれが、同じ物件であっても、別の営業担当者だったら、私は、自分の訊きたいことを全て訊くことができただろうか。仮に購入したとしても、何の不安もなく、売買の日を迎えることができたのだろうか。それは自信が無い。けれども、この営業マンだったからこそ、「買おう」と思えた。それに、今後、住んでいてイマイチな問題が発生したとしても、「こんな物件を売りつけやがって!」と彼のせいにすることもないし、「まぁ仕方ない」と考えることができるだろうと思う。

結論、いくら便利になってもその社会を生きるのは、生身の人間

だから、そんな便利な社会になったとしても、最後にあるのは人間の心だ。買う側/売る側、求める側/提供する側、そのどちらも。どちらかが、伝える努力を怠っても、きっと相手には伝わらない。困っている側が、きちんと解決に向けた努力をしなければ、メーカーもそれに正確に対応できない。お店側が、きちんとお客の求めていることを把握しようと努めなければ、きっとお客は満足しない。

最近、何だか「属人化させないで、仕組み化、ナレッジ化しよう」とか「もっと業務効率化しよう」とか仕事でそういうことを言われるたびに、ハイ承知しました!と答える一方で、「それは大事だけど、たぶん他にも手を打たないと根本的な問題解決にならない気がするよなぁ」なんてことを思っている。

たとえば、属人化は良くないけれど、その人にノウハウが集まってきた背景を考えてあげないと、ただ知識を集めただけでは使えないものになりそうだなぁ、とか。業務効率化は大事だけど、何でもかんでもそれで解決すると思っていたら、何か問題が起こった時に大混乱になりそうだなぁ、とか。

効率効率ってそれは大事だが、それが目的になってやしないか。

結局、幾ら便利になっても、たぶん人間が絡むと要らんミスや諍いが出てくるもんなので、いかにヒューマンマネジメントやら対人調整が大事なことか。だって、そこに居るのは、生身の人間なんだもの。

と、コミュニケーション低能力者のくせに、そんなことを思った話。