あさぶろ日記

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他者から評価されることについての話。

もうすっかり年の瀬。先日、小学校一年の息子も終業式を迎え、二学期を終えた。

そして通信簿も貰ってきた。中身を見る前まで、親バカというか色眼鏡で「もしかして全教科Aかな?」などと内心期待していたが、現実はそう甘くない。
教科によって、良いものがあったり普通なものがあったり。毎日身近で頑張っている彼の姿を見ている立場としては、「いやこれがこんな評価なのはおかしいだろう」と憤りを覚えてしまいそうにもなる。
つい、かつての自分は得意だったことが、子供にとってはそれほど得意でないことだったりすると「なんで出来ない?」となってしまいがちだ。

しかし、よくよく考えると、子供とは言え自分とは異なる1人の人間。側から見て子供が「苦手なのかな?」と思われるようなことでも、実は当の本人は楽しんで取り組んでいることもある。それに、そもそも「苦手」とか「得意」とかの評価なんて、見る人によってガラッと変わる。

だから、たかが一年間、2、30人をまとめて見る先生が、我が子の良いところを見抜けることなんて、到底無理な話なんだろう(申し訳ないけど)。
彼が、塾にも行かずに既に今の時点で掛け算の九九を全てマスターしていることも、スーパーマリオブラザーズUの全ステージのBGMと構成を暗記していることも、クラスや学年を超えて学童保育で他の子たちと色んな遊びをすることができることも、きっと先生には分かるまい。

断っておくと、もちろん先生側の事情も分かる。「先生が下した評価なんて意味ねえわ」と言うつもりもない。教育的な指針に基づいて、客観的(と信じたい)かつ定量的に子供たちを評価していくことが業務なのだと思う。そのため、基準に沿わない、子供たちの「良いところ」があったとしてもきっとそれは、学校教育においては、評価の対象にはならない。

結局は「とあるルールの中ではそういう評価」という程度にすぎない。通信簿もその一つ。それ以上でもそれ以下でもない。

そしてそれは社会人にとってもそうで、仮に今の業務でうだつが上がらないという評価を得ていた人が居たとして、何かの拍子に異動や転職で別の環境に身を投じた途端、それまでとは180度異なる評価を得てしまうというケースもよく聞く。
人が評価するのだから、100パー客観的なんてあり得ない。というかそもそも、人が人に対して絶対的な評価をすることなど出来ようがない。そこにあるのは「その環境の中での特殊なルール」と「その枠組みの中で、とある一面から評価をしなければならないという状況」だけだ。

大事なのは、自分が打ち込めるものがある、面白いと思えるものがあるなら、そんなに幸せなことはないということ。たとえどんな環境であってもそれは絶対的な宝になる。他人からの評価より、自分の中にある自信やエネルギー。そちらの方を大事にすべきだ。

息子には、ちょっと落ち込んでいたように見えたので、そんな話を平易な表現で伝えてみた。
「ふーん、そっかあ」
どれだけ彼に響いたのか分からないが、父ちゃんは無条件で君を応援している。あんまり気にすんなよな。

というか、自分自身が子供の頃にはそれほど成績も良くなかったのに、それを棚上げして子供にそれを求めるなんてできないわな…というのが本音。