あさぶろ日記

note のほうに書いている記事を保管しているだけです。

好き嫌いではないと思うからこその話。

少し仕事の話。

とある事情で、全社的にあるサービスの導入を予定している。いくつか競合他社というか、選定しようと考えている業者が居るのだけれど、紆余曲折あって二社まで絞り込まれた。

私は所属する部署の毛色の関係で、割とオブザーバー的な立ち位置でその選定の打ち合わせの場に参加していた。だから、直接的には決定権は無い。というか、意見を求められたら言うけれど、私は積極的に発言はしない。

なぜか。それは私が、そのサービスの導入に内心納得が行っていないからだ。

だから、大人の事情で仕方なく会議は参加しているけれど、正直言って別にこのサービスの導入をどうしてもやりたくて仕方ないわけではない。むしろやりたくない立場だ。

そりゃ会社全体から見れば、至極真っ当で大変意義深い取り組みだと思うし、試算した資料を拝見すると、効果としても恐らく高いものが期待できるでしょう。だが、それはそれだ。私個人は特に賛成はできないが、組織に属する人間としては反対もできない。そこはオブザーバーという立場を隠れ蓑にして、あまり大きな声を上げないように自制している。

「別に会社のためになるならそれでいいじゃん」という意見も分かる。私も頭ではよく分かっているつもりだ。会社のためになることであれば、結果的に従業員である我々のメリットにもなる可能性が高い。

ではなぜ、そこまで気が進まないのか。

それは、その選定の候補先の業者が、いずれも「何となく好きになれない」からだ。

どうだろう。この子供みたいな理由。でも実際そうなのだ。

一社は洋風かぶれで自社のサービスをまあ自画自賛して、よく分からない横文字の言葉で捲し立てて、アレやコレやと要らんオプションを山ほど付けようとしてくる。しかもよくよく聞けば中身は複雑で、色々な面からとても運用に耐えられるとは思えない。そして傲慢で上から目線。良い言い方をすれば、それだけ自社のサービスに自信があると言えるだろう。だが、あまりに強引だし、何が何でもイニシアティブを取ってやろうという強い意志が見てとれる。そんなに鼻息荒くして全部やろうとして「本当に大丈夫?」という感じ。それは裏を返せば本気で弊社のことを考えてくれていると捉えることも可能だ。まあそう考えれば悪くはないんだろうが、どうにもその熱量を怪しく思って、大きな温度差を感じてしまう。

もう一社は、非常にやる気が無い。そして態度も良くない。まあサービス自体は実績多数なので品質も悪くはないのだろう。しかし如何せん「本当に大丈夫?」という感じだ。上で書いた「大丈夫?」とは違う意味での「大丈夫?」だ。よく分からないが。もっと言うと、対応してくれる内容がかなり限定的で、ちょっと全社的な効果は薄い見込み。悪い点ばかり書くとフェアではないので良い点も書くと、こちらは使いやすさで軍配が上がる。と私は思っている。サポート体制も悪くなさそうだ。費用面でもかなりお得ではある。ただ、こちらは良い意味で「決められたことはキッチリやります」という反面、「いやそこはウチの守備範囲じゃないんで」ということを平気で言う。それはそれでビジネス的には致し方ない。

というわけで、どちらも一長一短。そしてどちらも、私にとっては「何となく好きじゃない」のだ。この感情が、予感という形で現実に良くない結果に繋がらなければそれでいいのだ。杞憂に終わればそれでいい。

もちろん、好き嫌いで仕事をするわけではないし、その成果が決まるものでもないことは十分知っている。当然、どちらかの業者が選ばれたとしても「嫌いなんで、私は手伝いません」と言うつもりもない。最終的には偉い人たちが決めることで、GO と言うなら、その方針のもと突き進むほかない。サラリーマンだからだ。上でも書いた通り、私に決定権は無い。下っ端サラリーマンだ。好き嫌いは、腹の下に捩じ込んで、あくまでビジネスライクに、ドライに接するだけだ。

「好き嫌い」で言えば「嫌い」だ。最初からマイナススタート。だからこそ、「好き嫌い」を超えたところで、どこまで仕事として結果が出るのか、今のところはその辺りを注視していこうと考えている。

そんな、独り言でした。

酒癖の悪さに見る、血の繋がった男同士の関係の話。

実はあまり触れたくない話題。
だけど書く。これを深掘りすることで、未来を明るくする助けにしたいからだ。

かなり長くなります。
そしてちょっと、暗い内容も含まれます。


実家の家族のこと。

まず前提として、家族の話。
実家の家族のことだ。

私の父はもう居ない。他界している。私が大学生の時に、病で亡くなった。

そして母は健在で、今は私の弟と一緒に暮らしている。しかし生活の拠点は、私の実家ではないところにある。賃貸アパートを借りて、そこに住んでいる。私の実家のほうは、祖父母が生活している。一緒に住んではいないのだ。その背景は、端的に言えば、母が実家に住みたくないためだった。

なぜか。それは、母にとっては亡き夫の思い出や身の回りのものがそのままの状態で残ったあの家で暮らすことが、かつての日々を思い出してしまい、あまりに辛いからということだった。

また、子供である私からすれば、それ以外にも祖父母と母との関係もその一端にあるように見えていた。母は、実家のあの家に嫁いでから、祖父母からは実の娘のように扱われてきた。

これは必ずしも良い意味というわけではない。実の娘のように呼び捨てにされ、実の娘のように何の構いもなく雑用を頼み、実の娘のように感謝の気持ちも表現すらしないで、自身の身の回りの世話をすることを当然と考えて接するのだ。

優しい母。

私は生まれた時からそういう中で育ったので、そういう風景というか関係性が当たり前だと思っていた。だが、年を重ね、成長し、様々な家族の関係を知っていくうちに、それが当たり前でないことに気付いた。世の中には、嫁いできたお嫁さんに対して、敬意を払う家があること。実の子だからと言って、ぞんざいに扱っていいものではないこと。うちの実家が異常か異常ではないかという話ではなく、多様性を知るようになった。

だからというわけではないが、長年、祖父母からの厚かましい注文に耐え続けてきた母が、父の死をきっかけに、実家を出たいと言い出しても、それは仕方のないことなのだろうなと私は思った。祖父母にとっては実の娘のように思っていたとしても、母からすれば、既に夫も居ないし、血の繋がりもなく特段仲良く一緒に遊んだりもしない人たちから自分のことをこき使われるという環境に、どうして変わらずに身を置き続けなければならないのか、という思いが生じても不思議は無いからだ。

とは言え、母は優しい。実家とは離れた場所に暮らすと言っても、車で10分程度走ればすぐに駆けつけることができる場所を選んだ。こき使われていようとも、祖父母のことは心配で週に一、二回は実家を訪れ、気にかけているようだった。そして現在は、高齢のために祖父母がどちらも生活の足を無くしたことで、よりその頻度を上げている。

内心、母がどう思っているかは分からないが、祖父母のことが嫌いで嫌いで仕方なくて、という感じには見えない。恐らく好きではないだろうが、それよりも、義理とはいえ親子関係があるし、心配だからまだ関係を維持しているように見える。まあ実際のところは分からない。

一つ確実に言えることは、母は本当に優しいということだけだ。

弟のこと。

そして、今回の本題なのだが、そんな母と一緒に暮らす弟のことだ。

彼は、生まれてこの方、地元を離れたことはない。年は私の二つほど下なので、もう既に三十代。そして独身だ。定職には就いており、その賃貸アパートから仕事に行くが、身の回りのことは一切しない。

どういうことかと言うと、還暦を過ぎた母が、毎日、弟の食事を作り、衣服の洗濯をし、風呂掃除をして、朝は起こし、夜にリビングで寝てしまえば寝室で寝るように促すのだ。詳しいことは知らないが、恐らく賃貸アパートの契約だって弟ではなく母が全てやり、毎月の家賃も、ほとんどが母の方で支払っていると思われる。

こう書くと、いかにも弟が、自堕落でだらしのないダメ男に見えてしまうかもしれない。いや、申し訳ないが、私にはそう見える。けれど、それが完全に彼だけの問題かと言えば、そうではないと私は思う。それは、母もそうさせてしまっている部分もあるように思うのだ。

相互依存のこと。

母は、何でもやってしまう。上で書いたように、家事全般は文句一つ言わずに片付けるし、人のために動くことを全く厭わない。仕事もパートに出ているが、職場でも頼りに晴れているようで、とてもバイタリティのある人だ。そんな母だから、祖父母のことをずっと支えてきたし、弟のことを未だに幼い子供のようになんでも色々やってしまうのだろうと、私は思う。

だが、弟は、上にも書いたように、もう三十代だ。こんな言い方は良くないかもしれないが、健康で、自分で身の回りのことを世話できるはずの、いい大人なのだ。稼ぎは少ないと本人は言っていたが、正社員で仕事もしていて、収入はある。自由に動くこともできるし、休みの日は好きに自分の趣味に出かけることもする。ただ、生活面というか生活の運営の面では、母におんぶに抱っこの状態だ。母親に、いつまでも甘えていていいはずがない。言ってしまえば、社会的には自立できていない。少なくとも私からはそう見えてしまうのだ。

一度、いや、何度か、私は母に対して「一緒に住まない?」と訊いたことがある。もちろん妻も同意のうえで。現在、私の妻と子供は、実家とは離れた場所に住んでいるが、母も高齢になって心配だし、いっそ我が家で一緒に住まないか、という提案をしたのだ。

しかし母は、その申し出を断った。それは、母自身、生まれ育った町を離れるのは寂しい気持ちがあるからだと。また、弟のことも心配だと。

思うに、弟も、そして母も、お互いが依存している部分があるのかもしれない。こればかりは私が強引に決めることもできない。だから、「まあいつでもいいから、同居のことは考えておいてよ」と言うに留めておくことにした。

弟の優しさ。

弟は、小さい頃からちょっと頼りないというか、あまり自分の意思を強く前に出したりするようなタイプではなかった。

兄である私としては、そんな弟のことが心配でありながら、他方で、力関係として弟のことを下に見ていた部分も、正直あった。ケンカになれば私の方が力も強かったし、意見を主張してそれが通るのは、いつだって私の方だった。いつも私が弟を支配していたように思う。今に思えば本当に申し訳ない。可哀想なことをしたと思う。

そういう中で育ったからなのか彼の性質がそうだったからなのか分からないが、弟は、とても優しいのだ。私が、母に対して「弟のことなんて気にしなくていいから、引っ越してうちの家族と一緒に住もう」と強く言わない(言えない)のは、弟のことが心配という気持ちもあるが、弟を傷つけたくない気持ちもあるからだ。

私の子供たちは、弟に懐いているし、弟も「おいちゃんと呼んでね」なんて言って、甥や姪をとても可愛がってくれる。幼い頃はあんなに支配的な態度で接してきていた兄である私に対して、そしてその子供たちに対しても、今でも変わらず穏やかで優しく対応してくれるのだ。

だからこそ、そんな弟には、どのような形でも早く自立してほしいし、私たち家族も彼との関係を保っていたい。関係そのものを切り捨てるようなことはしたくない。いつか彼自身が自分の意思で家を出て、自分で生きていく。そうして大人として、家族として良好な関係を続けていく。そういう日が来ることを、心のどこかで待ち望んでいるのだ。

酒癖の悪さ。

しかし、そんな優しい弟も、酒を飲むと人が変わってしまう。

いや、人が変わるというか、「抑えていた衝動が飛び出してきてしまう」と言った方が適切かもしれない。一言でいえば、酒癖が強烈に悪い。誰かに手を出すとか暴力的なことは無いが、くだをまくのだ。からみ酒だ。そして飲み過ぎて、吐く、潰れる。正直言って、かなりめんどくさいし、みっともない。

彼がここまで酔い、ハメを外す場面は、大抵が親類と一緒に飲食をするときだ。少量の酒ではそのようにらならないが、かなり飲み過ぎると歯止めが効かなくなる。そもそも私自身が酒も強くないし、弟の友人と会ったことがないので、彼が飲んだくれるようなシーンを見るのは、そういう親類との席くらいしかないからだ。うちの親戚は、小さい頃から比較的関係が良好で長く交流が続いているので、弟もつい気を緩めて飲んでしまうようだ。

実は先日も、そのような出来事があり、なかなか大変な思いをしたため、今回の記事を書こうと思うに至った。

そこで彼が泥酔して、いつも言う言葉は、母に対する不平不満だ。暴言というほどではないが、文句がすごい。母は、世間体というか体裁を気にする人なので、そういう弟の酔い潰れた態度を恥ずかしく思っている。それでいつもその度に小言をいい、弟もそれを煙たく感じている。

実際、母の気持ちはもっともだと思う。そういった親類の集まりとなると、私や弟と同年代も多く、そのほとんどが結婚して子供が居る。もちろん、結婚や子供が居ることが全てとは思わないが、弟自身に関しては、いつまでも母の世話になって、それでいて一人だけ恥ずかしいような酔い方をして周りに迷惑をかける。比較しているつもりはないかもしれないが、実際比べたような形になってしまうのだ。「お前もそろそろ…」みたいな。弟も恐らく内心それを気にしていて、それでも現状とのギャップに苦しんでいる部分もあるのだろう。そうして煽るように酒量が増える。

そして最終的に、酔い潰れて寝転んだ三十過ぎの弟を家に連れて帰るのは、母の役目なのだ。母はそれが許せない。母が弟を諌める言葉には、時に怒りすら帯びていることもある。

私も、そんな弟を見ていて思うのだ、「いい大人なんだから、ちゃんとしろよ、全く。親類の席では、小さい子も大勢居るのに…」と。同じように、怒りを覚えながら。

「ちゃんとしていない」こと。

こういう「ちゃんとしていないことに対する憤り」について、ふと、何かの記憶が頭を過った。

それは、子育てだ。もっと言うと「息子」に対して私がたびたび抱く感情に、非常に近しいものがあったことに気付いた。娘にはそうは思わない、なぜか息子に対して思うのだ。

食事時、何度注意しても、気を抜くと手づかみして食べている。宿題を終わらせてからテレビを見なさいと言っても「大丈夫、大丈夫」と呑気にしていて、結局翌朝に慌てて不機嫌になりながら宿題を終わらせる。妹と一緒に遊んでいるときにエスカレートしてつい調子に乗って、ケンカに発展して妹を泣かせる。そのどれも、私は息子に対して「ちゃんとしろよ、全く」という感情を持ってしまうのだ。

だが、落ち着いて考えてみると、「ちゃんとしている」とはなんだろう。

私は、弟に対しても、息子に対しても「ちゃんとしている」を求めている。しかしその「ちゃんとしている」は、もしかしたら自分の物差しを押し付けているだけなのかもしれない。

ちゃんとご飯は箸やフォークで食べるとか、ちゃんとその日中に宿題を終わらせるとか。ちゃんと一人で家に帰れるとか、ちゃんと酔っ払っても他人に迷惑をかけないとか。そういうのは、常識的には一般的にはその通りなのだろうけれど、仮にそうじゃなくてもそこで「怒り」を抱くのは、違う。

一体自分は何でこれほど怒ってるんだ、と思った。

価値観の押し付け。

それはきっと私が私の価値観を、彼らに押し付けていたのだ。

弟や息子など、より身近で自分よりも歳が少ない人に対して、私が力関係として「下」と見ている人が、私の価値観と違うことをすると、どうしても許せないという感情が出てきているように思う。

つまり私の器の狭さ、傲慢な態度によるものだ。なんでもコントロールしたい。そういう自己中心的な思考が、私の怒りを呼び起こしている。

けれど普通に考えれば、ナンセンスだ。弟も、息子も、私と違う一人の人間だからだ。彼らには彼らの人生を送る資格があるし、私の人生を生きるものではない。逆に、私も、彼らの人生を生きるわけではない。もちろん、幼い子供時分であれば、守ってあげたり最低限のマナーというか教えも必要だが、それは彼自身の思想や行動を支配してコントロールしていいというものではない。

そもそも、力関係というのも、私は誤認していた。弟は私より年下だから「下」、息子はまだ子供だから「下」、という認識があったが、それは常に普遍的なものではない。年下だって当然立派で人格者も居るし、子供であっても成長していけば親よりも遥かに地位や名誉も得られる人も居るし、ダメ親のもとに育ってもその子供は素晴らしい人間になることもある。年齢など、その人を見るにあたっては実は関係ないはずなのだ。

私は、ある一時期に「同性で、血の繋がりがあって、目下」ということだけで「同じ男として、自分がちゃんと面倒を見て、道を外さないようにしてあげなくてはならない」と勝手に勘違いしていたのだ。同じ男として、先を行くものとして、というか。(娘に対してそう思わないのは、恐らく性別が違うことで、自分との違いのようなものをありありと認識しているからかもしれない)

本当は、自分も相手も、違う生き物だというのに。性別が同じだろうと異なろうと。最初から、力関係も無い。師匠と弟子というわけでもないのだ。

結論、願う明るい未来。

結局、弟に対しては、私は自立を願うことしかできないのかな、と思っている。

彼も、いい大人だ。いい大人なんだからちゃんとしろ、ではなく、いい大人なんだから自分の人生は自分で生きてもらいたい、だ。どうやら本人としてはいずれは結婚したいが、まだ踏み切れない気持ちがあって、ズルズルしているようだ。結婚しようがしまいが、どんな形であれ、母に頼るよりも、彼自身が大人として自立した生活をしてほしいな、と兄としては思う。そうできる能力はあるのだから。母だっていつかは居なくなる。そうなった時に、弟が強く生きられるようになってほしいのだ。

そして、私が息子に対しては、彼の未来を私の勝手な思い込みと価値観によって狭めることはしたくない、ということに尽きる。

息子はまだ大人ではない。だから、親として教えることは教えるが、それは「私として」ではなく「親として」という視点を見失わないようにしたい。息子の良さはめちゃくちゃたくさんあるはずなのに、つい、些細なつまらないことに目が向いてしまう。

しかし、それではダメだ。息子は、決して私の分身ではない。つまらない私の常識を押し付けて、彼を、私のようなつまらない人間にさせてはいけない。

それにしても、恥の多い生涯ってよく言ったもので、今回も、自分の未熟さを思い知った。まだまだ、本当に。

実は家族の話はもっと色々書きたいことがあるのだけれど、今回はこの辺で。なんとも恥部を晒すような記事で失礼いたしました。おしまい。

2022年の健康診断結果が返ってきたので振り返ってみたよの話。

毎年、一応会社から言われて、定期健康診断を受けている。

ちなみに、去年も記事にしていました。

私は健康オタクではないし、そういう類の知識を全く持ち合わせてはいないけれど、「健康か不健康か、どちらか選べ」と言われたら、そりゃ「健康」のほうがいい。

よく一般的なイメージで、世間のオッサンたちの共通の話題として「健康(もしくは不健康)自慢」というものがあるように思うけれど、もしかしたら私の話もそういうふうに聞こえてしまうのかな。

けれど、三十も後半、四十代が見えてきた今日この頃、やはり健康は大事だと思う。なぜって、そりゃ太っているより痩せているほうが良いし、タプンタプンで居るよりも、引き締まっていたほうが良い。身体ボロボロよりも、溌剌として毎日を過ごしたい。

第一、今更モテたいとは思わない(いやモテたら嬉しいと思うけど、ただでさえコミュ力が壊滅的だし、多分そんな器用に生きられない)し、息子と娘が「パパかっこいいね」と思ってくれさえすれば、それでいい。あとは、公園で子どもと一緒に走ったりするときに、すぐ息切れするのは困る。最低限の運動能力は欲しい。

だから、ガチでムキムキを目指すつもりもない。まとめると、適度に、引き締まって、運動もしやすければOK。そういう目的で色々やってみて、たまたまその過程に「健康」が含まれているだけだ。そういう体型や身動きを目指すと、自然と「健康」が視野に入ってくるというか。

これがもう少し年を重ねていくと、加齢とともに病のリスクも上がってくると思うので、もしかしたら目的自体が「健康」にシフトしていく可能性はあるけれど。

実際、親父が病で亡くなったことで、どれほど健康がありがたいものか、その考えが、恐らく自分の細胞にインプットされることになったと思うので、どうしたってそれを完全に無視することはできない。そこまで健康信者というわけではないつもりなのだけれど、そういう出来事があったことで「病気になってからでは遅いよな」という思いが鳴りを潜めて自分の心の奥底に確実に存在するのだ。まぁその話は今はどうでもいい。

というわけで、今年の結果を、去年と比較してみる。

まず体重。少し減った。腹囲も若干細くなった。

上で書いたような「適度に引き締まって、運動しやすいように」という目標に向けて、一つのマイルストーンというか、自分の中での中間ポイントとして「まず65キロジャストにする」というものがあった。今回65キロを切って、それが達成された形。良かった。

上でリンクを貼った去年の健診結果の記事には書いたけれども、実は、2020年時点で、体重は72キロあった。それが今回も60キロ台をキープできているので、ひとまずは安心。この調子で引き締めていきたい。無理なく。

体脂肪関連では、中性脂肪はガツッと減った。項目の説明を見ると、糖分(主食、甘いもの、アルコール)を摂り過ぎたり、運動不足だとこの数値が上がってしまうらしい。今年は(今年もだけれど)、筋トレも基本的には毎日やっているし、意識的に歩くようにしたのが良かったのかもしれない。アルコールは体質的に弱くなってしまって、飲んでも週に1回適度で缶チューハイ350ml一本とかだし。糖質ダイエットと呼べるほど徹底したものではないけれど、摂取する炭水化物を出来る限り少なくこともしているので、それも功を奏したか。

逆に、コレステロールは増えてしまった。炭水化物は減らしているけれど、その分、タンパク質とか脂質はとってしまっているかもな、と反省。焼肉屋さんに行っても、ライスは頼まない分、お肉をガンガン食べてしまう。油物も、適度に抑えようと思う。

また、比較項目が厳密には異なっていたので、上の表には記載していなかったけれど、今年は、尿酸・腎機能関係の数値で微量の上昇が見られた。クレアチニンや eGFR といった項目だ。前述の通り、アルコールはそれほど摂取していないが、タンパク質と塩分はたしかに多く取っている気がする。焼肉で言えば、ロースとか大好きなのでガッツリ食べてしまう。ステーキも好きだ。当然塩気は多い。腎臓も大切にするためには、その辺りも気を付けていこう。

さて、色々と傾向と対策的なことを述べてみた。

最後は、心電図。これが鬼門でして・・。

去年の記事にも書いたけれど、やっぱり今年も、波形は異常だ。

2018年
・Brugada波形(saddle back型)
  ↓
2019年
RSR’パターン
  ↓
2020年
・半時計回転
  ↓
2021年
・不完全右脚ブロック
  ↓
2022年
・半時計回転
 ←New!!

一体、何なんだろう。「今回はどんな新しい波形かな?」と思ったら、一昨年と同じ波形だった。いや、別に新しいの期待しているわけではないんだけど。

去年の記事でこんなことを書いていた。

一度、この心電図の結果がたしか「C」とかになって要観察だか再検査だかになってしまい、病院に行ったことがある。しかし、そこでは特に問題ないとの診断だった。以降、毎年波形はおかしいけれど、動機や息切れなどは無いので、あまり気にしないようにしている。前に一度調べたら、正常な状態でもこのような波形になることが多いと知ったので、これは大丈夫だと信じてもう調べることをやめた。というか、本音を言うと、調べたら怖くなるので実はもうあんまり調べたくない。

いや全くその通り。同じ所見。変わってない。

妻に「健康診断の心電図ってさ、なんであんなに正常にならないものなのかね?」と訊いたら、「いや、普通に異常なしだよ」と言われた。他の人も同じように、波形がおかしいものだと思っていたけれど、そうじゃないんだな。こう何年も続くと少し怖くなるね。そう思うと、ん?何だか動悸や息切れがしてきたり・・しないか。

というわけで、また今年も不安な気持ちで、健診結果の振り返りを終えました。やっぱり「健康(もしくは不健康)自慢」になってしまったな。きちんと私もオッサンでした。おわり。

遊ぶために可処分時間を見直してみる話。

ここ最近、心が疲れている。特に嫌なこととかショッキングなことがあったわけではないが、何となく荒ぶというか「はぁ、やる気出ないな」という感じなのだ。

家にずっと居ると、日々のタスクはある程度可視化されていて、それは言い換えると、安定した状態に保たれていると言える。大きく分ければ、自由時間と仕事時間と家のことをやる時間。あとはこれ以外の時間。それらがある程度明確に分かれていて、それぞれで何をする時間なのかが決まっているためだ。

たとえば、自由時間は、朝自分一人だけが起きてから他の家族が起きるまでの時間くらい。仕事時間はそのままの意味。家のことをやる時間は、子供たちを学校や保育園に送り出したり、迎えに行ったり、洗い物したり、たまに料理したり、買い物したり。

したがって、トータル24時間をザックリ表せば、比率的にはこんな感じだろうか。

  • 自由な時間(朝の3時〜6時までの3時間)
     ⇒ 12%
  • 仕事している時間(日中帯、8時間)
     ⇒ 33%
  • 家事の時間(17時〜21時までの4時間)
     ⇒ 17%
  • その他の時間(睡眠や食事、スキマの9時間)
     ⇒ 38%

うーん。そもそも今の私は「自分のためにもっと時間を使いたい」とは思っていない。別にこのままでも問題は無いし、無理はしていない。満足すらしている。

ただ他方で、もう少し、自身のためだけにワガママに時間を使ってもいいのかもな、とも思っている。

というのは、上で書いたその「疲れている」的な原因は、恐らく好きなことにあまり時間を割けていないためだと思うからだ。最近、熱中していないのだ。好きに、ワガママに、時間を使いたい。もっと言うと、時間を忘れるくらいに、没頭したい。すごくありきたりで、ダサい言い方をするならば、「心に栄養をあげる」ということだ。

そのためには、ちょっと時間が足りない。もっとダラッとしたり、「うぉお、ヤベえ」と興奮したりする時間が欲しい。端的に言えば「遊ぶ時間」のことだ。

もちろん、時間だけでなくその使い方についても検討は必要だけれど、一旦ここではそれは考えない。「何をして遊ぶか」という話だが、それは別の機会に譲る。量より質という意見は分かるよ。せっかく時間があっても、すぐSNS見たり、変な動画観たりして、気付いたらめっちゃ時間経っていることは往々にしてあるから。そういう時間の使い方は「遊び」にあたるのか?というと、たしかに怪しいところがある。後悔していないダラダラならそれはプラスだけれど、「なぜオレはあんはムダな時間を…」となるとちょっと勿体無い。

でも、使い方は棚に上げて、まずは、確保する時間を増やすのだ。(上手く)使われていないを見つけて、解放してあげる。「何に使ってもいいよ!」というような、よりフリーな時間にしてまとめてあげる。

したがって、目標としては、全体の12%を占めている、この自由時間(3時間)をいかに増やすか、ということになる。

一番手っ取り早いのは、その他時間(9時間)から捻出すべきだけれど、睡眠時間は削りたくない。これはきっと6~7時間くらいはとっている。そうなると、残りの2~3時間から割り当てできないか。

現実的には、お昼休み時間や、仕事と家のことをやる間の空き時間などかな。今は家で仕事をする日がほとんどなので、ご飯は家で食べるか、近所のご飯屋さんに行くか。そしたら、家で食べる場合は、ご飯を食べてから昼休みが終わるまでの時間。ご飯屋さんに行く場合は、行き帰りの時間。仕事と家事の間の時間は、買い物に行っているか、子供を迎えに行っている。捻りだすなら、このあたりの時間か。

また、仕事時間(8時間)だけれど、むちゃくちゃ忙しい時とそうでない時の差は、割とある。「仕事中に遊んじゃダメだろ」という意見もあるだろう。それはその通りだ。ただ、「遊び」という行為は客観的な意味に限定されるものだとは思っていない。仕事に関係するものに没頭して楽しければ、それは「遊び」であり「仕事」でもある。

そうすると、あくまで仕事関係の「うわー面白いわぁ」なら、ここの時間を活用してもいいかも、とも思うのだ。けれど、あまり仕事の色を濃くしてしまうと、それはそれで長期的にはスキルは上がって嬉しいのだが、短期的には心の癒しには繋がらないような気がする。「すごく楽しくて仕方ない」ならいいけど、少しでも「ま、役に立つしな・・」があると、義務感が出てくるからだ。あくまで「あぁ、楽しい」を追求する。「役に立つ」のは大事だけど、それを目的にしない。もしかしたら「役に立たなそう」なもののほうが良いかもしれない。

あとは、家事の時間(4時間)。家事と言っても、我が家は、私と妻では妻のほうがタスクのボリュームとしては大きい。妻がやることは、子供の学校や保育園の準備をしたり、ご飯を作ったり、洗濯物を洗ったり干したり畳んだり。

対して私は、子供の送り迎えしたり、食器洗いしたり、風呂掃除したり、くらいしかない。あとは共通の家事で、子供の宿題見たり、お風呂に入れたり、とかだ。そうなると、送り迎え中とか食器洗いしている最中の時間が、どうやら使えるかもしれない。

こうやって考えてみると、もしかしたら結構「遊べそう」な時間は多いかもしれない。

ちなみに、私が日常的に「自由時間」(3時間、現状では一日の12%)に充てていることと言えば、

  • 筋トレ
  • 読書
  • 半身浴
  • SNS徘徊(この note も含む)

くらいだ。

これだけでも十分だけれど、もう少し心躍るものを追加しようと思う。心の疲れを癒すためだ。別に何もやらなくても自然と癒されればそれはそれで構わない。時間を増やそうとする目的は、いつどんなものを追加してもいいように、だ。

そして、つい「役立ちそう」を考えてしまうので、そのコントロールが難しいのだけれど、できれば、くだらないものがいいな。そんな「遊び」を増やすのだ。


と、盛大にどうでもいい話を書いてしまった。そんなことを書き並べなくたっていいから早くやれよって話。

本来、このようなことは書かなくてもいいことだろうけれど、せっかくなので思考のプロセスを残しておきたかった。恐らく、私にとっては、こういうくだらないことを書き連ねることも、十分に「遊び」なんだろうな。

と書きながらしみじみ思った。おしまい。

言葉というメディアの話。

口は禍の元。いや本当に。

先日、私の不用意な発言で妻の機嫌を損ねてしまう出来事があった。それはもう100パーセント私の非なのだけれど、どうしてこんなことを言ってしまうのかな、と少し頭を冷やして考えてみた。

職業病なのかもしれないが、こういうものはトラブルとして考えてしまうわけで、そうなると、どうにか今後このようなこと(同じようなこと)が起こらないようにできないかという思考になる(完全に防げるものではないものだとしても)。それが再発防止ということであって、それとイコールではないものの、「何故そのようなことが起きたのか?」という原因を追究することはその策を検討するための一助になると考えている。まあそんな御託はどうでもいいとして。

さて、私が考えた限り、結論から言えば、その原因は2つあるように思う。

1つは、配慮の無さ。

妻に対して配慮が足りていなかったことが挙げられる。私と妻は出会ったのが10年以上前になるし、結婚してからも10年弱は経っている。人と比べたことはないけれど、関係は割と悪くないほうだと思っている。妻も仕事をしているが、可能なら休日も合わせて一緒に遊びに行ったりしたいと考えている。休みがあっても、私一人で過ごすというのはあまり無い。また、このご時世、お互い家で仕事をする機会も増えて、妻と一緒に過ごす時間自体も大幅に増えた。それでも一緒に居ることは苦痛ではないので、ストレスは感じていない。

しかし、それはあくまで私の目線。妻は別に休みを合わせたいと思っているわけではないかもしれない。休みは一人でどこかフラッと出掛けたいこともあるだろう。一緒に居ることがストレスに感じている可能性もある。ただ、だからと言って、私は強制するつもりもないし、妻がそうしたいのであれば止めたいと思わない。

その上でだ。仮に妻はそこまで私と一緒に居たいと思わなかったとして、私のほうは、やはり少々のびのびとしすぎていたように思うのだ。

どういうことかと言うと、「妻と一緒に居ること」があまりに自然で、当たり前で、心地良くて、心が安定した状態になっているために、私は妻に対して配慮が欠けてしまっているのかもしれないということだ。

「きっと許してくれる」「受け入れてくれる」「嫌われるわけがない」そんな自分本位な思いが、心遣いを欠いた発言に繋がっている可能性が高い。

これは本当にマズい。

あまり書くと読者の方がドン引きするだろうと思うので書くことに抵抗はあるのだが、正直、妻の居ない人生など私は考えられない。ここまで心を開くことのできる存在は、妻以外、今後この先の人生で現れるとは思えないのだ。そして、妻ほど、賢く、優しく、一緒に笑いあえて楽しくて、心安らげる人も、少なくとも私は、今まで他に出会ったことがない。だから、今の私にとって妻は、生きがいと言ってしまうとトンでもなく気持ち悪いが、死ぬまで一緒に居たいと思える人なのだ。どう?引くでしょ。

恥を覚悟で書いてみたけれど、それほど大事な人なわけだけれど、それを不用意な発言で傷つけてしまっている。そのような状況であれば、普通に考えて、いつ妻が私を嫌って、離れていくかも分からない。そもそも、私は「人と人とは結局のところ分かり合えるはずはないのだ」という非常にネガティブな思想を持っているはずなのに、それを頭で分かっているはずなのに、ついそのような配慮の無いことを言ってしまう。きっと妻が私のもとを離れてしまったら、私は死ぬほど後悔するだろうに。

要するに、そのような事態は避けたい。だから、今から改善するのだ。

そこで大事な教訓は「親しき仲にも礼儀あり」だ。これがなっていなかったのだ。手遅れになる前に、改善しないといけない。

で、それと、原因と思われるもう1つのこと。

もう1つは、無思考。

どうして思いやりの無いことを言ってしまうのか。いかに妻を大事に思って接していたとしても、なんとなく、言葉というものが独り歩きというか、勝手に飛び出してしまっているような気がするのだ。

どういうことかというと、そういう心無い発言をする際、きっと私は「頭で考えていない」のだ。

上に挙げたことと少し通じるのだが、こういう生活になってから、あまり人と会話をする機会が無い。喋る際に「言葉」というものを、きちんと使っていないのだ。

仕事上でのコミュニケーションは、ほとんどがメールかチャット。そこでは頭で考えて、テキストを打つ。失礼にあたらないか、こっちの要求ばかり主張していないか、相手の意図を把握できているか、十分に考えてから言葉に表す。スピードが求められる場面でも、ある程度は推敲するのでそこまで配慮に欠けた表現にはなっていない(と私は思っている)。

他方で、口頭でのコミュニケーションは家庭内ばかりになっていて、そこでは推敲というか熟考はしていない。

妻や子供は、(少なくとも私にとっては)100%心を許せる存在で、好きなことを言える。もちろん、好きなこととはいえ、非人道的な発言はしたくないし、していないつもりだ。あくまで「思いのままに、思ったことを言っていい」という、言わば「心理的安全性」の非常に高い空間で発せられる言葉なのだ。それらは、自由である分、正確ではないことも多い。自由である分、綺麗ではないことも多い。

要するに、日常の中で私の発言のほとんどが「頭できちんと考えて」というプロセスをすっ飛ばしたものであることが多いのだ。それは、心置きなくとか、フランクとか、そういうプラスの側面ももちろんあるけれど、あまりにその面が強すぎると、つい「言葉」というものの重さとか、鋭さとか、強さ、みたいなものが無視されがちになってしまうのだ。こと発言者にとっては。

だから、言ったほうがそう思っていなかったり、そういう意図ではなかったとしても、言われた方には誤って伝わってしまう可能性が高い。頭で考えて発せられたものではないために、あまりにストレートになってしまって、とても raw なもので、受け取るほうは咀嚼が難しかったりするのだ。常にそうすべきとは思わないが、オブラートに包むというのは、相手に対しての心遣いという側面もあったりする。「親しき仲にも礼儀あり」ということも、それに近しいと私は思う。

もちろん、気の置けない相手にも常に慎重になる必要はないとは思うが、それは相手に対して無礼・非礼な態度や言動で接していいということでは決してないと思う。

「頭できちんと考える」というプロセスを抜かしているために、「こんなことを言ったら、言われた相手のほうはどう思うかな」という想像力が欠けている。だから、そのような不用意な発言になってしまう。

じゃあ考えよう。言葉をしっかり使おう。意味を、それによって波及する影響を、ちょっと考えないといけない。そのうえで、使わないと、思わぬ凶器になりかねない。

そういう再発防止というか、原因追及をしてみた。


ここからは、雑談というか、雑記で。

今読んでいる仕事関係の本で「メディア」について記載されていた。

それによれば、メディアを使う場面は大きく分けて以下の3つとのこと。

1.表現する
2.伝達する
3.記録する

1.表現は、表現手段として。たとえば、文字とか音声とか、動画とか、そういった表現手段としての「メディア」というものだ。自分の思いや考えを表現するためのツールということだ。

2.伝達は、伝達や通信するための媒体として。たとえば、手紙、電話、新聞、テレビ、ラジオ、インターネット。チャットやメールなども。あくまで物理的(もしくは概念的な)な伝達手段、コミュニケーションだ。

3.記録は、情報の保持や蓄積、記録のため。ノート、メモ、CDやDVD、BD、ハードディスクとかフラッシュメモリとか。より物理的で、情報を保管しておくための入れ物だったり、箱だったり、場所なわけだ。

私は普段、情報システム関係の業務に携わっていて、なるほどそういった区分けで考えたことはなかったが、こと「データ」ということを考えた時に、当たり前のように上記のものを使い分けているつもりでいた。

同僚や顧客と意思疎通する際のツールもそうだし、システムで処理するデータの保管先ストレージをどうするかとか、仕様を説明する際のベストな手段は口頭なのかな、それとも資料に落としたほうが良いかな、とか。そういう「メディア」について、結構上手に使い分けているつもりでいたのだ。

しかし、それは仕事に限った話ではないのでは?ということを思った。

つまり、上記で触れたような私の妻に対する「不用意な発言」は、きちんと「言葉」というものを「メディア」として捉えていなかったことが原因なのではないか、と。

コンピュータの世界では、上記メディアは重要で、というか、そもそも、通信手段・媒体として正しい選択肢をとらなければ、正しく動作はしないのだ。

どういうことかというと、送信元と受信先があって、何かの情報を伝達したいとする。まずは、送信元から情報を発信するわけだけれど、もし受信先に至るまでの間で、何か中継する装置があった場合、その中継器が正しく情報を受信する必要がある。もし、何らかの事情でそのままでは受信先が受け取れない場合は、その中継器が解釈したり加工したりしてあげる。そうなると、正しい変換の形式をしてあげないといけないのだ。最終的に、受信先が受け取れるように、その過程できちんと形式を合わせてあげる。それこそ、そのために「メディア」を正しく選択する必要があるのだ。

人と人とのコミュニケーションも同じ。

相手が受け取れるような「形式」は何か。それをきちんと考えて発信してあげなければ、相手が誤った形で受け取ったり、正しく到達しない可能性も高い。想いが伝わらないというのは、お互いの意思自体が合致しないことも当然あろうが、そもそも過程や形式が異なることが原因ということもあるだろう。

「そんなつもりじゃなかったのに・・」

となるまえに、ちゃんと頭で考えて、正しく言葉という「メディア」を選ばないといけない。そんなことを思った。おわり。

※追記。妻にはめちゃくちゃ謝りました。許してもらえたかな…。

色々諦めている話。

今日は何だか、小難しいことを書きたくない。

今日は、と言うかここ最近、頭が上手く働かない。なんとなく四六時中疲れている感じがする。

仕事が終わって家事(と言っても比率的には妻の方が圧倒的に多いが)をして、子供たちを風呂に入れて寝る準備をしたら、もう何もできない。自分のためだけに割く時間など無い。捻出すればありそうだけれど、そのような気力も無い。ただただ日常に流されていくだけだ。

その中でも、道標とか生き抜くための武器として、どうにかして本は読みたいし、実際幾つか並行して読んでいるのだが、一瞬でも興味が無いスイッチが入ってしまうと、もう眠くて仕方ない。

私の頭の作りがポンコツなのだろうが、興味が無いと眠くなって、それ以上頭に情報が入ってこないのだ。

今読んでいる本は何冊かあるが、辛うじて興味の糸が切れずに済んでいるものもある。いつその糸が切れるかビクビクしながら読み進めている。他方で、途中でもう既に切れてしまった本は、消化試合のような形で、ただひたすらページを繰っていく。当然、頭の中に知識など残らない。思考していないからだ。

「ほう、それでそれで」とか「いやこれはどう考えても違うだろ」みたいな思考をしながら、つまり書物と対話をしながら読書をしていかないと、少なくとも私は、自分の血となり肉となるということが無い。現状、心に余裕が無いせいか、そういったことが出来ていない。ただ一方的に話を受け入れていくだけ。

何の話だっけか。そうだ、諦めている話。

意欲はあるが、頭や体がちょっとくたびれている感じ。心はまだ少しだけ燃えている。この心に灯った火が消えそうになったら、そろそろマズイかも。

そうなる前にどこかで充電しよう。うん。
今は無理せず、諦めるのだ。

諦めがどうとか、今の自分にはちょっと考える余裕が無い。つまりは、潔くギブアップということだ。

ところで、この文章を書いている際こんな言葉を思い出した。

「健全な精神は健全な肉体に宿る」

誰が言った言葉だかちょっと忘れたが、その通りだ。

ちなみに今は、21時前に家族全員で寝床に就いたはずなのに、娘が咳が酷くて起き出して、リビングで看病したりしていたらこんな時間になってしまった。

娘の体調は落ち着いたようで、ようやくリビングのソファで眠りについたけれど、寝室に戻る気力は今の私にはもう無い。というか、この疲弊した体で娘を抱っこして寝室まで行って寝かせるのは、ちょっともう今は無理。諦めた。

それに、また咳き込んでしまうと可哀想だし、真っ暗な寝室だと対処も難しいから、もうここ(リビング)で居るのでいいや。

だから今はこうしてダラダラと時間を過ごす。眠たいはずなのに、無為に過ごしてしまう。いかんなぁ。

いやでもやっぱり寝よう。明日は休み。休みなんだから休むべき。よく寝て、よく休んで、そして回復するのだ。まずは健全な肉体にするために。それは、諦めたくないなぁ。おわり。

切り替えようか悩んでいる話。

悩んでいる。

悩みすぎて支離滅裂な文章になってしまっていると思う。

今回はそういう話です。


1.我が家のゲーム機事情。

以前に、幾つかの記事でゲームのことについて書いた。

現在、息子は大のゲーム好きだし、私自身も、子供の頃は結構やり込んでいた。とはいえ、我が家にあるのは、最新のゲームハードというわけでなく、型落ちというか若干時代遅れ気味のハードしか無い。

現時点での最新機種と言えば、任天堂ならスイッチだし、ソニーならPS5とかになるだろう。そんな中、我が家にあるゲームハードは、WiiUPS3だ。時代としては、10~15年くらい昔に流行っていたものになる。これが我が家ではまだまだ現役だ。

息子は、WiiUでは、スーパーマリオブラザーズUやスーパーマリオ3Dワールドスーパーマリオメーカーというソフトをよくプレイしている。そして最近では、ディスクで購入したスーパーマリオブラザーズWii、さらに彼は、スーパーファミコンにも手を出し始めた。

ただ、スーパーファミコンは当時のハードではなく、「クラシックミニ」と呼ばれる復刻版の据え置き機で遊んでいる。この中に、「スーパーマリオワールド」や「ヨッシーアイランド」、「スーパードンキーコング」など、往年の人気作品がズラリと並んでいる。かつて私が熱中したソフトは、何十年という時を超え、現在小学生の息子もたちまち虜にするほどの魅力を、今もなお持ち続けているのだ。

何が言いたいかというと、WiiUもそうだが、それよりも結構古いゲームについても、息子はかなりの熱量を持って、ハマってしまっている。多分、彼の通う学校のクラスメイトは、スイッチ派が大多数を占めているはずで、古いハードを持っている家庭なんて、それほど多くはないだろう。あったとしても、そこまでやり込んでいる子など、恐らく皆無ではないか。

2.オワコンについて。

以前、夫婦で話し合った結論としては、「まぁそのうち、スイッチに次ぐ新しいゲームが出るでしょ。そしたら新しいの買うのでいいんじゃない」というものだった。

だが、本当にそれでいいのだろうか。という思いが、最近になって私の中に浮かび上がってきているのだ。

というのは、今年になって、PS3WiiUも、その関連サービスが相次いで終了してきている。

ニンテンドー3DSシリーズおよびWii Uの「ニンテンドーeショップ」サービス終了時期に関するお知らせ |サポート情報|Nintendo ニンテンドー3DSシリーズおよびWii Uの「ニンテンドーeショップ」サービス終了時期に関するお知らせです。 www.nintendo.co.jp

PS3最終モデルもアフターサービス終了へ……16年の歴史に幕 | GameBusiness.jp 部品在庫の枯渇が終了の理由とのこと。 www.gamebusiness.jp これが何を意味するかというと、「もうこれを使って新しい遊びというのはできませんよ」ということなのだ。本当の意味での「オワコン(=終わったコンテンツ)」だ。

もちろん、ゲームハードとして物理的には、稼働する限りは、遊べる。それに、これらのゲーム機で遊べるソフトも、今でも面白いものばかりだ。

けれど、そこに留まっている限り、未来は無い。

言わば、昔懐かしい楽しいゲームソフトはあるけれど、そのハードから新しいゲームソフトは出てこない。どんなに画期的だったり、斬新だったり、好奇心をくすぐるようなソフトが出てきたとしても、それでは遊べない。そもそも、ゲームハード自体も生産終了し、そのサービス自体も配信終了しているからだ。

3.今後予想される状況。

息子は、WiiUバーチャルコンソールという機能をよく使っている。これは何かというと、スーパーファミコンファミリーコンピュータなどにあった昔懐かしいソフトを、WiiUのなかにデータとしてダウンロードして、WiiU上で遊ぶことができるものだ。

しかし、この機能も、今年になって終了してしまった。実際にはまだ利用できるようだが、今後、バーチャルコンソール上で、何かソフトをデータとして購入するということが出来なくなっている。(課金のシステムも終了しているため)

つまり、我が家では、現時点で家にあるゲームハードとそれ専用のソフト、でしか、遊ぶことができなくなっているのだ。古い、すでに販売済みのソフトは、ディスク版を購入して遊ぶ以外の方法は無い。

新しいゲームソフトでは、遊べない。新しいゲームソフトで遊ぶためには、最新(に近いものも含む)機種でないと、それができないということだ。

小学生と言えば、私の時代(というか環境)になるが、もうゲームが大好きで大好きで仕方ないものだ。その小学生が、時代遅れのハードしか持っておらず、クラスメイトが新しいソフトで盛り上がっているのにもかかわらず、その話の輪の中に入っていけないというのは、可哀想に思ってしまう。きっと、クラス内のどんなゲーム好きな生徒よりも、息子はゲームをやり込んでいるし、その知識もマニアレベルに近いものがある。それなのに、その腕前や知識は、最新のものではなく、「レトロ」な域を脱しないのだ。

もちろん、教育方針とかそういうものも大いにあるので、「別にゲームなんてやらなくても立派な大人になれます」という意見もあるだろう。そもそも立派な大人にするために、ゲームをやらせるかやらせないか考える、というのも変な話だ。

そうではなくて、単純に、私は、こんなにもゲームが大好きな息子が、最新の(もしかしたら昔よりももっと面白いような)ソフトに出会えない、という状況が、何とも辛いというか、もどかしく感じてならないのだ。

また、上であまり触れていなかったが、WiiU以外の我が家の現役選手であるPS3は、その用途としては、主に「テレビ番組の録画用」としか機能していない。

リビングのテレビにWiiUを接続しているが、寝室のテレビにこのPS3を繋げている。ディスク容量もそこまで食っていないので、録画機能もそのままに動かしている。正直、これはそこまで必須ではないのだけれど、ある時「あっこんな番組も録れていたんだ」というときには結構便利なのだ。加えて、YouTube視聴もできるので、リビングのテレビが使われているときなどにも便利。いざというとき、結構使えるものだ。

ただこれも、PS3のサービス自体は終了しているので、いつ、それらの使い方ができない状態になるか、分からない。(実は、現時点ですでに結構使いにくくなってきて支障は出てきている部分はある)

4.いつ買い替えるべきなのか。

では、当初私と妻とで検討した「そのうち新しいゲーム(ハード)が出るまで待つ」というのは、現実的なのだろうか。

それを考えるにあたって、ゲーム年表を調べてみた。

[主要ゲーム機年表 - DoldoWorkz

moondoldo.com](https://moondoldo.com/DoldoWorkz/?%E4%B8%BB%E8%A6%81%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%A9%9F%E5%B9%B4%E8%A1%A8) これによれば、WiiU発売が2012年12月、そしてニンテンドースイッチが発売されたのが2017年03月とのことで、5年後に出てきたことになる。PS3が2006年11月発売、PS4が2014年02月発売、そして、PS5が2020年11月発売。そうなると、大体6~7年間隔で新しいハードが出てきている。

現時点で、スイッチが発売されてから約5年、PS5が発売されて約1年。さすがにPS5の後継はしばらく出ないと予想するが、スイッチのほうは、時期的にそろそろまた大きな変化が起きてもおかしくない。現在、Liteバージョンとか有機ELモデルとかそういうタイプも出ているし、どうやら巷では Pro とか、スイッチ2 という後継機も噂されているようだが、そうではなく、そもそもスイッチじゃない全然別のハードが出てくる可能性の話だ。

とはいえ、これだけスイッチが売れている状況を見ていると、まだまだその熱は衰えないような気もしてくる。何せ、世界の家庭用ゲーム機の販売台数としては、5位以内にランクインし、日本国内においては、3位以内とのことだ。

[家庭用ゲーム機の販売台数一覧 - Wikipedia

ja.wikipedia.org](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B6%E5%BA%AD%E7%94%A8%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%A9%9F%E3%81%AE%E8%B2%A9%E5%A3%B2%E5%8F%B0%E6%95%B0%E4%B8%80%E8%A6%A7) そういうわけで、今買ってもまだ買わなくても、どちらでもいいように思う。

5.ゲームの楽しみ。

以上を総括すると、「だったら、もうそろそろスイッチ買ってもいいんじゃね?」ということだ。粘りに粘ってきたけれど、もういいんじゃないかと。

スイッチなんて、今や子供の居るほとんどの家庭は持っているんでしょ。失礼を承知で言えば、その家の子供たちに比べて、恐らくそれに負けないかそれ以上に、うちの息子はゲーム自体が好きな部類に入ると思う。だって、毎日ずっと暇さえあればゲームの話をしているのだから。基本的には、我が家ではゲームをするのは休日だけだぞと決めているのだが、平日でもゲームの話。「マリオのあのコースが・・」とか「このステージの歌が・・」とか。もし休みの日にゲームができない状況になると、彼は泣きわめき、怒り狂う。それくらいゲームにお熱なのだ。

それほどゲーム大好きな息子に、スイッチの楽しみと、そしてそれを誰かと共有する楽しみを味わってもらいたいのだ。

あくまで私の経験なのであてにならない可能性は大だが、なんとなく据え置きのゲーム機などは、年を重ねるごとにあまりやらなくなる。

自論だが、小学生時代が一番ゲームは楽しい。私も、よく放課後や休みの日は、友達と一緒にゲームをして遊んだ。それがゲームをしていて一番楽しかった記憶として強く残っている。もちろん一人でやるゲームも楽しいが、誰かと一緒にアレコレ言いながらやるゲームは本当に楽しいのだ。

だったら、息子にとって楽しめるであろう今の時期、そういう経験をさせてあげたいと思ってしまう。

6.結論。

「へえ、そうか。じゃあ早く買ってあげなよ」

分かる。分かるんだけど、そこが悩んでしまうポイントだ。

なぜなら、上に長々と書いたとおり、我が家ではWiiUが現役。そのソフトも基本的にはディスク版で持っており、「スーパーマリオブラザーズU」「スーパーマリオブラザーズWii」「スーパーマリオ3Dワールド」「スーパーマリオメーカー」「ルイージU」「マリオパーティ」「マリオテニス」「マリオカート」など、なかなか多く保有している。ディスク以外のダウンロードデータとしても、「スーパーマリオワールド」「スーパーマリオブラザーズ3」とか、なんかもうヤタラとある。

そういうものたちをスイッチでも遊べればいいのだが、そういうわけにはいかない。スイッチはスイッチのゲームソフトを買って遊ぶ必要がある。

恐らく、天性のゲーム八方美人(?)の息子のことだから、スイッチを買ったとしても、スイッチでも遊ぶし、WiiUでも遊ぶ、ということをしそうだ。

いまだに、最初に触れたゲームである「スーパーマリオブラザーズU」はプレイする。上に書いたように色々なソフトを買ったのに、最初に遊んだゲームはまだやる。全クリしていても、何度も最初からやる。「スーパーマリオブラザーズU」だけじゃない。買ったソフトを、「今日はこれ」「今日はこっち」とアレコレやりくりして、ほぼ満遍なくプレイする。

だから仮にスイッチを買ったとして、彼の中の「遊べるゲームソフトのリスト」が追加になるだけに思うのだ。

そうなると、我が家のリビングのテレビ周りがさらに雑多な状態になってくることが容易に想像できる。スイッチを買ったからと言って、WiiUを捨てて、部屋が綺麗になるということは無いのだ。本当は断捨離ではないけれど、新しいゲームを買ったら、古いゲームは捨てたい(あるいはこれだけあるので、売り払って多少のあぶく銭にしたい)ところなのだが・・。

そういうわけで、我が家ではきっと、ゲームの買い替えは「買い替え」を意味しないのだ。空間的にはさらにそれらが占拠するスペースが広くなるということ。その代わりに、日々の生活空間の窮屈さと、カオスなテレビ回りという環境を手に入れるというわけだ。

要するに、スイッチって言うけど、全然スイッチ(=切替え)できそうにない。(今回これが言いたくてここまで長々と書きました。ありがとうございました)

結局まだ悩む。おわり。